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おおおおきなおきなわのわわわ

文字化けではありません(笑)

これは「おお大きな沖縄の輪わわ」というプロジェクトです。

ちゃんと書くと「Oh!大きな沖縄の輪・和・環」になります。

今朝、この言葉が、頭の中にポーンと浮かんだのです。

今、私がやりたいと思っていること、そのつもりがあるのかないのか、不思議とその方向へ動き出していること。それらがひとつに繋がると、この言葉が、すとん、と落ちてきました。

【いつでも自分らしく、自分がじぶんであるために】

私は、デイサービスで介護の仕事をしながら、高齢者や身障者向けグループホームの利用者さん向けにヨーガ指導をさせていただいています。

お年寄りや、身障者の利用者さんと接すれば接するほど、皆さん個性的で面白いなあ!と思うことが多く、もっとこの世界(福祉)がカジュアルに、皆の生活の一部にあればいいのに。健常者も、身障者も、幼児も、老人も、みな、垣根のない、風通しの良い社会が当たり前になればいいのにな、と強く思うようになりました。

風通しの良い社会って、どういうことかと言いますと、ざっくり言えば、健常者が中心の社会のしくみのなかに、社会的弱者も一緒にいる、ということです。今より、ずっと。もっと、自然に。

どうやったらそうなるか?

社会のしくみ、全体を変えるのには時間がかかるけれど、ひとりひとりが、意識を変えることで、大抵のことは変えられると思います。

でも「意識を変える」なんてなかなか難しいので、具体的に言うと、はやい話、健常者の人は、高齢者の方の介護や、身障者の方の障がいに「慣れればいい」んです。すこし時間をかけて、お互いに慣れれば、その方の障がいとの付き合い方がわかってきます。高齢者の方も同じく。

けれど、大人になると、「今さら?」っていう気持ちが邪魔をします。「気持ちはあっても、やり方がわからない」ていう気持ちもそう言って邪魔をします。そもそも、介護に馴染みのない社会人にとって、自分の生活圏内に”施設へ足を踏み入れる”機会がまずないので、介護施設は一番遠くて分からない存在ではないでしょうか?ボランティアに行く、なんてめちゃくちゃハードル高いですよね。

ではなんで高齢者や身障者が、「一般人の目にも留まらない場所」に居るのか。そしてそのことに対し、何の違和感も持たないのか。

これは、私たちが小さい頃から、「分離」されてきたことに原因があるんだと思う。どうやって接していいか、わからないんだもの。一緒に過ごしていないから。

だから、もう、うんと小さい頃から、みんな一緒に同じところで大きくなればいいんじゃない?

「分離」がなければお互いの「違うところ」を、偏見なく、ただの「違い」として見ることができる。その視点があれば、障がいも、道に迷ってる人も、同じ「ちょっと困ってる人」。

「ちょっと困ってる人」に自分がなにができるか考えて、少し不便そうだから、手伝ってあげたいな。どんな風に手伝えばいいかな?って聞けばいいだけのこと。

聞いてあげて、自分にできないことは、他にできそうな大人を呼んでくる。

そうやって子ども達が、「ちょっと困ってる人」に、

自分でできることは自分でやり自分ができないときは「手伝って」と他の人にお願いする。

こんなふうに寄り添えたらもう、この先、いろんな施設はいらないんじゃないかって思うのです。だって、市民がある程度の介護や見守りのスキルがあれば、デイサービスだけじゃなく、街中のお店でかなり楽しく過ごせますもの。徘徊しがちな人も見守りの目が多ければ行方不明にならずに済みます。

まあ、施設はいらない、ってことはないけど(介護度の高い方にデイサービスの入浴サービスは特に必要だしね)、郊外のひっそりとした地に別々に立てなくても、介護施設やクループホームと駄菓子屋と保育園とカフェが、同じ敷地内に、ぜんぶあってもよくない?って思うのです。

もう、同じ趣旨賛同の楽しい施設が各地に作られているので、良い傾向だなあ、と嬉しく思っています。

なので、沖縄でも、同じような流れができたらいいなと思います。

子どもと老人と身障者がこの社会のなかに自然に溶け込んでいる未来を思い描き、今、自分ができることを行動していこうと思います。

個人名で活動するのもいいのですが、プロジェクト名があったほうがやりやすいなと思い、勝手にプロジェクト立ち上げました。

ジブン的には、漢字のほうじゃなく

「おおおおきなおきなわのわわわ」

のほうがしっくりきてます。説明しないと意味不明な感じも好き(笑)

さあ、まずはあたらしい保育園から。。




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