作り手はどこにいるのか ―偉人偶像説と個人の所在―

(note記事とさっきょく塾エッセイ2月課題を兼ねています)

2月の課題
「ひとりで作曲しますか?それとも誰かと共同で作りますか?」

例えば古典作品において、『ベートーヴェン』の「第九」とか、『ドヴォルザーク』の「新世界」とか、『ムンク』の「叫び」といったように、芸術作品は作家が1人存在してその人の表現が結実した結果一つの作品が生まれた、という捉え方をされるのが一般的である。逆に言えば芸術作品はその作家の「作家性」があらわれているとでも言えようか。

この「作家性」なる概念は、果たしていつから存在するものなのだろうか?

「作者不明」とされる作品がこの世には存在する。大昔の作品で作者名が伝わっていない場合や偽名を使った作品など理由は様々であろうが、そういった作品と接するとき、我々はそれの成立年代などを推定して、その作品が成立した経緯、周辺藝術作品からの影響や文化の反映などから解釈するだろう。

藝術は、その時代の文化の反映、文化を映し出す鏡であり、それを手がかりにして後世の人々は古代の人々のことを知ることができる。

私自身かなり前から「偉人偶像説」というものを唱えていて(といっても友達に飲み屋で語ってるだけであるが、、、)、簡単に言ってしまえば「時代性」と「地域性」さえ揃えば文化は必然的に発展する、と言ったものである。
大雑把に言ってしまえば「エジソンがいなくても電球は発明された」というものである。これを疑う人はいないと思う。電話の発明は2人ほぼ同時に申請していたらしい(ベルに2時間遅れで特許申請し間に合わなかったとのこと)し、他にもこういった事例はあるだろう。これの示すところは、同時代の同環境にいる人々の関心は同じ方向に向くというものであって、当然これは藝術の分野でも当てはまるのではないだろうか。つまり、ベートーヴェンが藝術を宮廷から市民へひらいたのはフランス革命における絶対王政の崩壊による歴史的必然性を持つものであるし、シェーンベルクが調性を崩壊させたことも、言うまでもなく第一次世界大戦による帝国主義の崩壊の反映であろう。
「エジソン」「ベル」「ベートーヴェン」「シェーンベルク」といった人々はいわば偶像的に名前が残っているだけであって、他の「個人」でも良かったはずなのである。

では、藝術作品に「作家性」を求めはじめたのはいつごろなのであろうか。
西洋哲学においてデカルトが『我思う故に我あり』と述べたのは1637年であるが、これ以降西洋文化は飛躍的な発展を遂げることになる。藝術の分野でもこのあたりからバロック時代が始まり、音楽では器楽の発展、オペラの誕生から19世紀の黄金期までつながっていることはこの記事の読者には周知の事実であろう。先に述べたデカルトの名言は、西洋における「個人の発見」として非常に重要視されており、西洋での普遍的な考え方になっていく。

私は、この西洋(偉人偶像説に基づき「デカルト」の、とは言わない)の「個人の発見」以降、藝術作品に対しても作家性を求めるようになったのではないかと考える。それ以前の作品に関しても作家の存在は確かに認められるが、「デカルト」以降の歴史研究の結果、後世の価値観に基づいて作品に併記されるようになったのではないだろうか。

ところで、西洋以外はどうだろう。日本以外の非西洋に詳しくないので(仕方なく)日本について述べたい。日本の音楽は基本的に口承であり、口承されていくうちに変形しオリジナルの形が失われるといったその特性も相まって、作家性といった概念をあまり適応してこなかったように思う。雅楽にしても能楽にしても、近世邦楽にしても、作家がはっきりわかっているものは少ないし、わかっていたとしても「作家性」を鑑賞しようとする姿勢はあまり見られない。
日本に「個人」の概念が認識されるのは、おそらく夏目漱石が1914年学習院においてスピーチしたものをまとめた『私の個人主義』がその最初期であろうか。ここで述べられていることを鑑みれば、それまで日本に「個人」の考え方がほとんど存在していなかったことがわかるだろうと思う。というより、東洋人からすると「個人」の概念は極めて一神教的な思想であるように感じるし、多神教的な思想が普遍的に広まっている日本文化においてはそういった概念は生まれ得なかったのであろう。

このように「個人」という概念が西洋由来のものだとすれば、「作家性」という概念すら日本は輸入していると言える。(しかし、例のゴーストライター事件は民間における「作家性」の神格化のようなものがみられて非常に面白いと個人的には思う。)

果たして21世紀の現在、「作家性」は存在しうるのであろうか。「西洋藝術」の分野では未だ健在なように見える。しかし、資本主義の社会構造に基づいた大衆文化(これを藝術と呼ぶべきかどうかは議論の余地がある)ではどうだろう。ポップソングの場合、「だれ」の歌かというリスナーの認識は「歌手」にあるのであって、必ずしも真の作家にはない。むしろその背後には複数の作家(作曲・作詞家、アレンジャーをはじめとする)がいて、「作家性」の概念を担っていると考えられるのではないか。わたなべさんが月始めに述べられていた西野亮廣氏の絵本の例はポップソングとはすこし違うかもしれないが、似たような構図になっている。
さらにインターネットの構造、ウィキペディアのシステムや、SNS(twitterやInstagram)は、ある個人ひとりではなく、たくさんの人々が作り上げていくものと捉えられよう。こういったネットワークシステムが欠かせなくなった現在、「作家性」の所在は不明瞭であり、一神教的な「個人」よりも多神教的な考え方が広まっていくと推測してしまうのは言い過ぎだろうか。「一個人vsマス」の帝国主義(為政者-民衆、宗主国-植民地など)に対して、そもそも資本主義という概念自体は民間が競い合って全体の基盤を底上げしていく仕組みである。

先月のオペラレクチャーに見られたように、今の音楽は今までの「音楽」の範疇で捉えられないところにまで広がってきている。その中には美術的な知識、映像技術的な知識、もしくは文学的な知識が必要なことも度々あるだろう。それにもかかわらず、音楽・美術・映像などそれぞれの分野の技術はもはや1人で制御しきれないところにまで発展しているのだ。

「個人」という概念は西洋特有のものだったし、そして「作家性」は近代西洋の幻影だった、といっそ開き直ってしまったほうが、むしろ藝術の未来は明るいのではないだろうか。

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