『平和への希求』 その30

さて、「反体制の主体的構築」という課題について現実的位相を見ているわけですが、状況変革のためには、もう一つ、ぜひとも反体制側がやらなければならない課題があります。
 それは、「人材の発掘・育成、登用・支援」です。
 例えば、地方自治体の首長選挙でも、如何にそれまでの実績と支持があるとはいえ、六選、七選などと高齢の候補者が出て敗北することがありますが、かねてよりわたくしは、後継者の育成はどうなっているのだろうと、疑念を抱いておりました。また、マスコミなどに登場する知識人や言論人たちも、70年代・80年代に活躍した人たちがまだ指定席を譲りません。
 勿論、どれほど高齢者であっても、その状況において、求められる思考と言論と行動を為し得ているのであれば、全く問題ないのですが、はっきり言って、ほとんど名誉職のような人物もたくさんおります。また、それほどではないにせよ、例えば、状況に対する的確な分析をなす点では優れた業績をあげても――勿論、それだけでも、知識人としての大きな任務の一つを果たしていると評価すべきではありますが――、保守反動の側の「現代の論客」との論争において、彼らの世論一般への説得力を有した言論に対して、的確な批判を為し得ずにいる人たちが、残念ながら、ほとんどです。
 マスコミなどでの論争をみていて、歯痒い思いをしているのは、わたくしだけではないでしょう。
 例えば、新ガイドラインの問題でも、保守派の論客たちは、北朝鮮などの野蛮な好戦的国家からの攻撃の抑止と万が一の際の自衛の為に必要な良策であり、また同盟国アメリカとの互助関係の維持と不正義を行う国家への制裁として必要な良策であり、平和と正義の道であると主張しています。
 それに対して、戦後左翼・革新の知識人は、護憲平和の理念に背く憲法違反の暴挙であり戦争への道として批判するだけです。
 つまり、ガイドラインを否定するとして、それなら攻撃の抑止と自衛はどうするのか、する必要はないのか、またアメリカとの同盟関係を維持するにはどうするのか、必要はないのか、さらに不正義を行う国家に対する制裁はどうするのか、必要はないのか、といった様々な課題――防衛と国際的責任・役割に関わる課題――に対して論じた上で、彼らのガイドライン肯定という主張を否定すべきですが、そのような言論を展開することはしません。勿論、護憲平和・憲法擁護の立場から、保守反動派の論客とその主張に共感をおぼえる多くの国民が抱く防衛上の不安と国際的責任・役割の遂行について、憲法こそがその有効な方策を示しているといった弁論であってもよいわけですが、そうした言論も見当たりません。ただ、「ガイドラインは、憲法違反だから反対だ。憲法を守れ」という主張の仕方をするばかりです。
 この主張は、防衛と国際的責任・役割という現実的な課題に直面して、その課題にこたえることが憲法に違反するという事ならば、憲法違反だからその方策を捨てるという選択ではなく、憲法そのものを変えてしまえばよい、憲法を守ることで、現実に直面している深刻な課題にこたえられないというのなら、現実への対応力を失っている憲法のほうを捨てればよい、というところまで意識変化をもたらしている現状に対して、如何にも説得力を欠いた観念的なものであると言わざるを得ません。
 憲法に違反することは絶対悪で、憲法を守ることは絶対善であるという憲法を金科玉条のものとして絶対視することは、最早、国民の過半の理解と共感を得られなくなっている現状を、護憲平和に立つ反体制の知識人たちはしかと自覚しなければなりません。
 そうした厳しい現状認識の上に立って、防衛と国際的責任・役割という課題に正面から有効な答え――繰り返しますが、憲法擁護の立場から、こんにちなお有効性を失わない憲法が示す方策を論じることでもいいのです。決して憲法擁護それ自体が間違っていると指摘しているわけではないのです――を示し得る人材こそが、こんにち緊急に求められていると、わたくしは考えます。
 その意味で、反体制の側は、客観的な状況の変化に対応した思考と言論を為し得る人材の発掘・育成と登用・支援に対して、今まで極めて怠惰であり消極的であったと言わざるを得ません。
 実際、既にマスコミで活躍している知識人や言論人たちも、己の活躍の場を、新たに発掘・育成した新たな人材の登用・支援に分け与えるような心配りを為すべきではないでしょうか。
 日本が戦争に関与する道を駆け足で進みつつある時、それを完全に阻止し得るような反戦平和、民主主義擁護の「反体制世界」を創造するために、何をなすべきか。「反体制世界」の全体創造のために、どういう論理と言語を、構築する必要があるのか、どんな具体的な実体を作るべきか――。
 表現する場をマスコミに確保している者として、己は、「状況」が求めるうちの何を為し得るか、何を為し得ないか――、己の出来る事と出来ない事を明確に認識すべきでしょう。そして、「状況」が必要としていながら、己が為し得ないことを、己に代わって為すことが期待できる新たな人材を発掘・育成し、登用・支援すべきでしょう。
 重要な事なので繰り返しますが、マスコミで言論活動を行なっている人々は、一度自らに問いかけてみるべきです。
 保守反動の戦争の陰謀に抗して、今、「平和の砦」は、現実に有効な形で確固として存在するのか、と。その欠落した「平和の砦」を築くために、己の思考と行動だけで十分なのか、と。己の言論活動だけで、状況が求める「平和の砦」は構築し得るのか、と。「平和の砦」の構築のために、他者は必要ないのか、と。
 そして、「平和の砦」を構築するという総合的な見地に立って、その中での己の役割を自覚すると同時に、言論人として築いた己の地位と力とを、新たな人材の発掘・育成と登用・支援にも行使すべきだと、わたくしは考えておりますし、そう期待してやみません。
 因みに、ここでは主体を個人として論じていますが、それは、組織や団体に主体を置き換えても、同様の事が言えることを、書き添えておきます。

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