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「More Than Words」カテゴライズできない関係性の先にあるもの

フェンファンがフロイニで、最近ハマったドラマとして紹介していた「モアザンワーズ/More Than Words」の話。
自分の生活とは離れているけど、この人の気持ち分かるなぁと、所々共感できて、泣いたと言ってた。(涙もろいフェンファンかわいい🥺)

美枝子と槙雄と永慈の3人が出会い、槙雄と永慈が付き合う。幸せな3人の関係性が、親や社会の介入でどう変化していくのか。ざっくりそんなストーリー。

まずフェンファンが言っていたように、ワンカットで撮られた映像が映画のようでとても素敵。
そして、主演3人の演技がとても自然で、ドラマの世界に溶け込んでいて素晴らしかった。

⚠️⚠️ネタバレ⚠️⚠️

ドラマは、永慈の父親が、永慈と槙雄に別れるように言うところから急展開する。例え槙雄と別れても、永慈が女の人を好きになれるわけではないが、それでも2人の関係を認めることができない父。
そこで美枝子は、父親に認めてもらおうと、永慈と槙雄の子供を代理母として産むことを提案する。

もちろんこの提案は2人の幸せを心から思ってのもの。
でも、同時に、男性を愛せない美枝子は、代理母になることで、「自分に意味を見出せる」と思ったことも事実だ。
そもそも、こう考えてしまうこと自体が、今の社会で、異性を好きにならず、結婚もしないまま生きていたら女として自分に価値がないと引け目を感じてしまうことに起因すると思う。
美枝子自身も、知らず知らずのうちに刷り込まれた社会規範の中で、自分の居場所がなくて苦しんでいた。そこから解放されるためには、出産という手段があった。

根底にあるのは3人のピュアな想いで、
「男とか女とか考えずに一緒におれる、この形が続けば、いつか終わるものも終わらんようになるんやろか」という希望のはずだった。

だけど、産まれてくる子供が永慈との子だと分かり、二人が籍を入れることになると、槙雄は2人の元を離れてしまう。
夫婦+1人という形は、疎外された気持ちになるし耐えられないのだ。

男とか女とか家族とか友達とか関係なく、ただ大切だと思える人がいても、その関係性を持続することはとても難しい。それを成り立たせることができる社会でもなければ、個人でもない。

出産した後、美枝子は永慈に言う。
「永ちゃんはね、友達とかお兄ちゃんとか弟とか息子とかひっくるめた感じで好きだから、自由にしててええねんで。」と。
永慈を無理に変えようとしたりはしないし、二人は表面的には夫婦・家族としての形を保って生活しているようだったが、人として、大切な存在だとしても、お互いが恋愛の対象ではない。

槙雄と再会して蘇る思い出、消えない永慈の好きという気持ちが切なかった。

男性を愛せない美枝子にとって、友達でも兄弟でも恋人でもない2人との関係性はかけがえのないものだし、欲しかった居場所だった。「どう生きていくかが試されている」という台詞がドラマの中にもあったように、大切なものを壊さず生きるために出した決断だったはずが、最終的に誰が幸せになったのだろうか、と考えてしまった。

考えるほどに、悲しくて切ない結末なんだけど、希望としては、美枝子と子供と槙雄が3人で手を繋いで歩くシーンを見せてくれたことで、家族でも恋人でもない槙雄との関係性がこれからも続いていくのかなと思えたところかな。でも、それって「夫婦」の関係性を変えてしまう気もする...。

最後、美枝子の子供が「白い石って硬い」って言うのだけど、主題歌の「ライムライト」って石灰灯って意味で、白い石、石灰を加熱して光らせる照明器具のこと。この台詞と、ライムライトって言葉は何かを意味しているのかな?(わかる人いたら教えてください🙇‍♀️)

フェンファンは誰のどんな想いに共感して、どのシーンで泣いたんだろう。
素敵な作品を紹介してくれてありがとう。感受性豊かなフェンファンのことがまた好きになった☺️🫶

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