セス・ローゲンと映画『ロング・ショット』

・『パラサイト』よりよかった。

『ディスイズジエンド』は、自分にとって重要な作品だった。
10年代前半、クラブパーティーに魅せられた時期の感覚が、そこには凝縮されていた。
いまになってそう思うのは、映画『ロング・ショット』をこの2020年のはじまりに観たからだ。今年一本目は傑作『パラサイト』だったが、正直、二本目の『ロング・ショット』にノックアウトされた。

セス・ローゲンの映画に出会ったのは、『ディス・イズ・ジ・エンド』だ。

世界が終わる、というシチュエーションと、コメディの掛け合わせが気になって観たのだが、ずいぶん面白くて、彼が製作にかかわった『ソーセージ・パーティ』も観た。『スモーキング・ハイ』はNetflixで観た。

・『ロング・ショット』は、誰もが警備員となった、という視点において、10年代を総括した映画である

『ディスイズジエンド』が10年代前半のクラブピープルの映画だったのに対し、『ロング・ショット』はそれこそ10年代後半の、クラブピープルその後を描いた映画だ。
『ソーセージパーティー』は、その間の、政治の季節に揺れ動く彼らの映画だった。

余談だが、知り合いが当時、『レディ・プレイヤー・ワン』と『ペンタゴン・ペーパーズ』で、スピルバーグは民衆が立ち上がる瞬間を描いていると言っていたが、自分はそれがどうした、『ソーセージパーティー』は、それをやろうとして失敗し、挙げ句拒否されて、修正してやっとやり直す過程までもが描かれていると思ったものだが、彼はどうせ観てないし、そうなんだ、スピルバーグの映画からそういうアクチュアリティを見出だすのはさすがだね、なんていって流してしまった。

・10年代前半のクラブピープル

10年代前半のクラブピープルはじわじわと、庶民に本格的に「発見」されていった。

もちろん、映画『ブリングリング』にみられるように、その流れは00年代からあったが、例えばインスタグラムが国民レベルまでに認知されていったのは、ここ日本ではそのくらいになるのだ。

「パリピ」という言葉は、当のクラブピープルの熱が覚め始めたときに一般的に使われ始めた。ちなみに「仕上げる」も。
それはインスタグラムの普及とともに流通した。
きらびやかで楽しそうな人たちが写真ですぐに見つけられる、見せることができるアプリの普及に伴って、クラブカルチャーの魅力は逆にみるみるうちに衰退していった。
庶民に発見されると覚める。
あとは発見したものたちとされたものたちとの入れ替わりが起きる。
交通とはそういうものだ。

そこに行き着きやすくなると、文化は廃れる。

魅力が失われるのだ。

『ロング・ショット』はそのあとのクラブピープルの人たちの話であり、10年代後半の彼らの総括とともに、10年代そのものの総括にもなっている。ただの娯楽映画、コメディ映画でありながら、作品にそのようなテーマ性が自ずと宿っていると思えるのは、セス・ローゲンがそれを体現しているからだろう。彼は映画の冒頭、文字通り「発見」され、そして職場はよりにもよって一番されたくなかった企業に買収され、利益偏重の抑圧状況の強まりからもう無茶はできない状況が嫌で退職し、無職となる。

・刹那的な人生の終わりの到来

あとはまるでご都合主義の連続を観てるかのような、国防長官となった幼馴染みの美女とのラブロマンスなのだが、彼は結局、なにを見つけられたのだろうか。

映画を通して描かれるのは、刹那的な人生の終わりの到来である。彼にとって愛を見つけるとは、国防長官の女性と結婚するくらいありえない、でかいものだということなのかもしれない。

やっと二人が体を重ねた朝、予想していなかった、フランク・オーシャンのムーン・リバーがかかる。そんなさなか、セスローゲンは海辺の朝日をひとり静かに見守る。
その場面の直前にある台詞とやりとりが重要だ。愛する女性、シャーリーズ・セロンは「いまじぶんたちがどこにいるかてっきりわからない」とささやき、彼と笑い合うのだ。

それは、"ありえない"ことを意味する。

ありえない。でも、それでいい。それが生きるってことなんだと。彼は朝日を見てそう確認する。

・自分たちがありえなくなった時代

セスローゲンも、シャーリーズセロンも、フランクオーシャンも、10年代を駆け抜けた人たちだと思う。そんな彼らも、いまじぶんたちがどんなところにいるのかわからないと言ってるかのような映画だった。

フランクオーシャンのムーンリバーのカバーという曲そのものが、彼がいまどこにいるのかわからなくなるタイミングに発表された曲もないし、シャーリーズセロンが次期大統領候補の国防長官という設定そのものが、彼女がいったいどんな場所にいたらそうなるのか、よくわらない。そう、彼女は10年代に『マッドマックス怒りのデスロード』という、映画におけるクラブパーティーみたいな車たちのダンスと狂乱のなかひたすらアクセルを踏み続けた存在なのだ。

あの海辺の朝日の場面が、映画の真実の瞬間だ。
一見して全くありふれた形式のラブコメ映画でありながら、その役どころをセスローゲンが、シャーリーズセロンが、フランクオーシャンが演じることで、どでかいマジックをもたらす。そして映画をつくるって、さりげない一瞬に高度な抽象性を観た人に仕掛ける、その為だけにあるようなものなんじゃないかとさえ思う。この映画は、それをごくごく当然のこととして、さりげなく、差し出す。

あの場面は、実はセスひとりだけのシーンではない。後ろにはセキュリティが立って監視している。
彼は風体からみても、クラブの入り口にたつセキュリティそのものだ。

セロンとその周辺を警備する彼だけが、セスとセロンの関係を知っている。
それは、彼だけが、クラブピープルだったセスそのものの真実を知っていることを指しているかのようだ。
すべてがありえない瞬間であることを。
そして、そのことは、10年代とは、監視の時代だったことを告げる。(ふと、00年代は環境の時代、となんとなく思う)

セロンが国防長官であるというその役柄からも、そのことは意識されているのではないだろうか。

・自分について

わたしは施設警備の仕事をしていたが、2019年、無職となった。
そのこともあって、強く主張したい。まるで当然の義務かのように人々が物事を監視する、10年代とはそういう時代だった。10年代前半のクラブピープルとは、実は、その時代の先行した監視者たちだったと思うのである。彼らこそが、人々の欲望、羨望を、クラブにおいて垣間見た。

10年代前半のクラブカルチャーは異様に盛りあがっていた。わたしはちょうどその時期、アゲハのゲイナイトにひとりで躍りに行くことにハマっていた。

12年から17年くらいは、アゲハのゲイナイトをほぼ毎回通った。でも、本当に盛り上がったのはそのうちの12年、13年頃くらいまでだった。

友達なんて一人も出来なかったし、つくる努力もしなかった。ただただ、その空間が好きだった。

実感として、やはりそのときクラブにはなにかあった、という感触が強くある。

30代になってほんの少しだけの余裕を持つようになって、そしてずっと孤独なままの自分のタイミングと、また、アメリカでダンスミュージックが商業的にでっかくなったという産業的側面のタイミングと、10年代になる前にレディ・ガガがあわらわれ、エレクトリックなダンス寄りのフィメール側からのポップミュージックが流行ったことなどなどが重なる。

自分のことをさらにいえば、現実がつらかった。寂しかった。その感情から切り離されている空間だからこそ、そこにひかれた。結局はひとりきりでも、だからこそ、ひとりでむしろクラブを楽しみたかった。その意味で、大きなハコのアゲハがよかった。寂しい楽しみかただろうがそれはそれでよかった。

・クラブが社会化された10年代

セス・ローゲンの映画『ディス・イズ・ジ・エンド』では、自分がそのとき垣間見たものが描かれているようにみえた。多分、自分に限らず、クラブを楽しんだひとたちがみればすぐわかるものだ。わたしが言いたいのは、10年代前半のクラブピープルがイケてたとかそういうことではなく、彼らはその場所でこれからの時代に待ち受ける、あらゆる欲望を垣間見に来ていた人たちだったのだ。クラブなんてある側面で、互いを監視し、いいね!をしたり、無視したり、嘲笑したりする空間だからだ。わたしは友達はいなかったけど、いいね!みたいに絡まれたり、その逆に、格好を指差されて知らない集団にあいつのあのシャツめっちゃださくねー?と笑われたりもした。皆が皆、絵にかいたようにあの空間を遊び楽しんだとは思わない。ただ、あそこにいる皆が求めるものが、時代に先行していたように思える。来る大衆の欲望の形態を感じとり、それらを皆、垣間見るために惹かれるように集まったひとたちの場所という熱気があったのかもしれない。あのときはそんなわけもわからなく、無我夢中で躍り、酒を片手にさ迷い歩いただけだったけど。とにかく異様だったのだ。そして、皆が皆、スマホを片手にその場所を撮ることに夢中になっていったことと、現在、アゲハのゲイナイトが、定期開催されることがなくなったことはどこかで繋がっている。

そして、あの頃のクラブが社会化され、よりその内実があからさまに展開するようになっていった。

あの場所の有効性はものの数年で消え去り、あそこにいたひとたちは、もうただの社会で生きていくだけになった、その感触だけで、言葉をとくに持つこともなく、ぼくを含め皆、ただ日々を繰り返していったんじゃないだろうか。

海辺のシーンのセスローゲンとセキュリティは同一人物である。クラブという場所は結局、皆が皆、自己のセキュリティのなかで監視を光らせる空間だった。その生き証人として、大麻大好きなセスとセキュリティは存在を同一にすることになる。すべてはクラブのセキュリティ、監視の目が見た幻想なのだ。

だから、邦題の副題、僕と彼女のありえない恋、はあまりにも的を得ている。

・生き証人と生きること

エンドロールで極めつけかのようにダンシングオンマイオウンがかかる。まるで10年代クラブピープルに捧げられたかのような終わりの曲としてやはりそれは響く。私は少し泣いた。(ちなみにSpotifyでこの曲の収録されているアルバムのリリース日を確認すると、2010年1月1日である)
『ロング・ショット』は、そんな"時代"…時代の時代、自分の時代、それぞれの時代がありえなくなったことへの別れの映画である。そして、どうしようもなくそれが清々しい、明日に向いて開いている。『パラサイト』のラストもつくづく納得のいくものではあったが、自分が観たいのは、冬の半地下でありえない計画を寝る若き青年ではなく、南国の、どこともわからない島の朝日をみて自分たちのありえなさに唖然とする中年の姿だ。セスローゲンは1982年生まれ、国は違えども、どこかで、まったく同時代を生きていると感じる。きづくと彼がそれを一番身近なところでしっかり描き、寄り添う人となった。自分にとって彼こそ、寄り添うもの、生き証人の映画をつくる人に現状なっている。セスローゲンは主演でありながら、自分たちに訪れたありえなさについて開かれた映画を撮ったと思う。

ぼくがつらかったとき、いまはもはやただの知り合いとなったかつての友人たちは一人としてそのつらさに寄り添うことはなかった。彼らはぼくにとっての生き証人じゃないからだと思った。自分をより正確な情報に落とし込むように意見を持つひとたちは、いまぼくにとっては必要のないものだ。

『ロング・ショット』は柔らかく朗らかに、寄り添ってくれた。



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