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桃園会「黒子な私」(1998)

昨日(7月31日)、深津篤史が亡くなって9年。25年前に書いた公演評を再掲。


 1998年6月27日、於・扇町ミュージアムスクエア。深津篤史の岸田戯曲賞受賞第一作。

 「十年前」がテーマ。確かに十年前、世の中はバブルの絶頂期だったわけだ。どんな馬鹿げたことでも当時はお金になった。たしかぼくの住まいの近くの六甲アイランドでも、西武系が出資して、運河をめぐらせた大規模でユニークなアミューズメント・ゾーンができるはずだったように記憶している。しかしその先駆けであったアオイア(遊園地)もフーパー・ルーパー(流水コースターのあるプール)も震災でどうにかなってしまい、アオイアの一部がハーバーランドに移って操業しているらしい。運河とかなんとかは、早々に何社かが撤退するなど、既にバブルの翳りも見えていたのかも知れない。関西に住むぼくたちにとって、震災をはさみ、そのような十年だった。

 相変わらず「どんなお芝居だったの?」と聞かれて、誠実に説明することは難しい。劇を見て何日もたった今、ぼくは改めて台本を読んでいる。「あそこで花が届いていたのは、浜崎からだったのか」とか。それは確認作業、または謎解きのようなもので、そのようなことを重ねても深津の劇の本質を再現することにはならないばかりか、かえって単色な痩せたものに矮小化してしまう。彼の劇の真骨頂は、舞台と客席が共有する時空間のうちに漂い流れている空気のようなものにあり、その空気をぼくは愛している。この空気について説明するのも難しい。冷たいとか温かいとか、乾いているとか湿っているとか、強いて言えば冷たく乾いているに近いような気もする。

 きっぱりしている感じ。何度かぼくは、深津の劇について、「わからないということについての潔さ」というような意味のことを書いたことがある。劇の中のいくつものことについて、見ているぼくたちはわからないのだが、そのわからないということ自体不愉快ではない。ぼくたちは世の中の大抵のことについて本当のところはわかっていない。噂や中傷の類の会話はたくさんあるが、その「真相」は誰も知らない。深津の劇は、わからないことはわからないままにしておくという意味でのリアリズムが流れている、というようなことを何度か書いた。

 劇の中では、作者は本当はすべてを知っているが登場人物たちは知らないというのが普通だろう。しかしぼくは深津の作品「のたり、のたり、」(1997・キタモトマサヤ演出、京都・劇研。大阪演劇祭で再演の予定)にふれて、作者である深津自身も、わからないということにおいてぼくたちと同じ場所にいてほしいなというようなことを書いたこともある。しかし今回この「黒子な私」を見終えて、ぼくは改めて彼の計算の緻密さに驚き、戦慄した。彼はもちろんわかっている。作品によってその辺りの出し方も異なってくるのかも知れないが、彼をぼくと同じ地平に置こうとしたぼくが間違っていたと思った。

 ある出来事をきっかけに精神を病んでしまったらしい男がいる。十年後、彼はどうも精神科か神経科の治療を受けているらしい。劇は十年前と現在、そして病院らしき場所、オープンを一週間後に控えたテーマパーク工事現場、と時間も空間も境い目なしに舞台に併置されるなどして行き来する。時々そこがどこかいつか、その人物がいつどこに属している者なのかわからないことがある。その時空の惑乱は、手法としてではなく、主人公(たち?)の時空の流れ、認識の混乱として提示されているように思う。それによってぼくたちをその混乱に引き込み、主人公の十年を一気に共有させてしまうのが、深津の力技である。

 劇冒頭で強い不快感を共有させてしまうのは、一つの手法だったかも知れない。向井(河合良平)が木下(荒木千童)に「~君」とクン付けで呼ばれるのを過剰なほど嫌って、いやらしくねちっこい責め方でやめさせようとする場面だ。河合の柄の悪さが素晴らしい。向井を「いやな喋り方をする男だな」と思った瞬間には、もうぼくは劇の時空に取り込まれていたのだと思う。

 嶋田(松蔵宏明)と呼ばれる男が軸になっている。「あれ見たん、お前だけやろ?」「なんも、ここで首吊らんでも」といった会話で、ここで首吊り自殺があったことが明らかになる。彼はそれを目撃した。それが強いショックであったことが、たとえば当夜木下と寝たのに立たなかったことや、彼だけ妙な幻聴のような声を聞いていること、のちの舞台の一部分が精神科であるらしいことなどから知れる。この事件によって彼は病んだ。しかしその男がなぜ死んだかとか、どのような男だったかとか(あとで田村という名前だけは知れるのだが)、そんなことは語られない。関係ない。大きな事件ではあるが、出来事は出来事自体によってではなく、その与えた影響によってだけ記憶され、語られる。

タイトルの「黒子な私」とは、直接的には自殺した田村のことを、

  国分 シミみたいやなあって。
  木下 シミ?
  国分 黒くポツンって感じ……その人。

と描写するところから来ているようだ。ひどい言われ方だが、確かにそういう人っているかもしれない。そしてそれ以上に、田村の自殺という出来事が、嶋田の中にシミのように黒子のように消えることなく残ってしまっているのが、この喩の秀逸なところだ。

 この劇に現れる時間と場所の概略をたどるのは、本当はけっこう簡単だ。オープン一週間前のテーマパーク、その十年後の同じ場所、時折挿入されるのが嶋田が入院しているらしい病院らしきところ、そして黒川(亀岡寿行)が浜崎(江口恵美)と訪れた郷里の沖縄。しかし、小さな挿入部として展開されていると思われる回想シーンを含めると、それをこうと定めるのはけっこう難しく、そのせいで全体が撹乱されているという印象を持つのかも知れない。さらに、時空を重複して事実が二つあるような混乱が生じてしまうのがこの劇を読み解く難しさだ。

 嶋田はのちに首吊り自殺を失敗して記憶を喪失し、「俺、身体動かへんし」という状態になっているようだ。それがどうも冒頭に嶋田が倒れていたシーンだったらしい。それが嶋田の十年だ。恋愛関係が発生することを十年前に予感させられていた浜崎から花束が贈られているのは、そのような中でのこと。嶋田は自分の記憶をたどることでよりも、現在の関係性から類推して自分の位置を把握し、記憶の欠落を埋めようとしているようだ。それでもそこにかすかにアイデンティティの残り滓のようなものがあるようで、それが(おそらくは災いして)彼の時空を歪めている。

 このように言いたてると、さも観る者がすべてをわかったような、言わば観劇後の視点でものを言っているようで本当の劇の興奮からはどんどん遠ざかってしまうようで、怖い。観ている時は、ぼくはもっと混乱している。黒川が浜崎と郷里の沖縄を訪ねているシーンに、嶋田が「あれ、違うんです」と注釈を加えるところで、嶋田の何かが混乱していると気づく前に、この劇の時空の成り立ちについての当り前の思い込みが惑乱させられている。すべてのことは、黒川という者の存在のあり方にしても、嶋田が思い出そうとしている断片、嶋田の幻想や妄想だったのか。または周囲の者が構築した「現実」を嶋田に提示し、それを彼が受け入れられずに否定しているということか。客観的な現実と嶋田の中の現実が錯綜しているらしいこと、そういうこともありうることを改めて覚悟させられるわけだ。一般的には、病者であるらしい嶋田の編み成す世界のほうが妄想であると判断するが、劇として舞台の上で展開される限りでは、等価に見える。少なくとも、客観的な現実が、嶋田の中では異なるものとして存在しているということはわかるし、それについて深津は、そして演劇というものは等価に提出するものであるということがわかる。

 カセットデッキから流れてくる音もそうだ。他のみんなは「普通に」RCサクセションの発売中止になった曲を聞いていたり、浜崎からの花束に添えられた手紙を読んでいたりするのに、嶋田だけ筒井康隆がどうしたとか交番でピストルを奪ってとかいう幻聴を聞いている。舞台にはその幻聴が男の声で流れる。ぼくたちもそれを聞いている。誰の声なのか、嶋田の声らしいが、定かにはわからなかった。あとで台本を読んで嶋田の声だとわかった。ぼくたちは、ここで嶋田と同じようにそのどこから来るのかわからない幻聴を聞き、そのことによって嶋田に身を添わせるように求められていた。

 ここでは連続性や同一性ということが鋭く問われている。わずか十年、嶋田が嶋田であり続けることは、簡単に崩れた。自殺の現場を見てしまった、女性への縋る思い、職場ではアルバイトに無能呼ばわりされる、女とのいざというときには不能に終わった……さまざまなきっかけはあっただろう。自殺(未遂)、半身のマヒ、記憶喪失、これらは人生を中断させるに足る大きな事件である。

 それが舞台上のことだけであれば、観客としてのぼくたちは他人事として安心し、現在に安住してよいことになる。それを深津は許さない。ぼくたちもまた強く惑乱させられている。そのようにいつも深津の世界は、鋭い臨場感として迫り、それをストレートに受け止めることを余儀なくされる。そのように一人一人の観客に突きつける匕首の切っ先が、劇の空気としてピンと張りつめて流れているのではないか。

 最後にやはりふれておかなければならないのが、深津の震災に対する思いのあらわれである。この十年の間にぼくたちが阪神大震災を経てきたことは、冒頭にも述べた。深津は「カラカラ」連作はもちろん、「凪、それから」「のたり、のたり、」でも陰に陽に震災が登場人物に影響を与えているのを描き、劇の空間に鋭い楔として打ち込んできた。ぼくは、深津からいつも自分のありかを確かめる切っ先を突きつけられているかのように、痛みを感じながらうなずいて接してきた。

 今回の作品でそれは、ステゴンと呼ばれる感受力が鋭すぎるほどの美大生・村上(森川万里)に映された。この仲間たちの中で、彼女だけ震災で命を失った。黒川に「こいつ、あほやねん。……死んでまいよんねんから。こいつだけやろ、あん時の面子でゆうたら」と言われながらも、「うち、見たかったなあ。……みんなメゲてしもたんやろ。……見たかったなあ。ほんまもんの廃虚。うちらが想像してたより、ごっついやつ。そうやったんやろ」と、廃虚がまるでテーマパークででもあるかのような視点を、死者の側から投げかける。この劇の舞台になったテーマパーク自体、村上が基本コンセプトを作ったという伏線も、これでみごとに収拾される。このシーンだけを切り取って云々するわけではないが、十年の間のバブルの崩壊と震災による街の崩壊が、嶋田の崩壊と重なって、何重もの墜落感覚となって、強い眩暈を起こしてしまったのだ。

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