輝かないための、言葉と身体

山下残 構成・振付・演出 「It is written there」(演劇計画2007)
2月28日~3月2日 京都芸術センター講堂

 山下残の『It is written there』は、観客に「本」を配り、出演者の指示に従ってページをめくり文字を読むことをさせ、出演者はそこに書いてある動作を行う、だいたいはそういうふうにできている。だから、出演者の動きが言葉を超えることは、あらかじめ想定されていない。むしろ、動きを言葉に封じ込めるために「本」の文字が与えられている。目の前のしぐさをどう読みとるべきか観客が考える前に、「本」には「トンネル」と書いてある。身体は文字によって封じ込められて、もがかない。
 そのことを、ぼくは2002年の初演を観て、知っていた。西嶋明子が当時NYに住んでいた者として「9.11」を語る言葉(を森下真樹が語り直す言葉)が、6年を経て風化を余儀なくされていることも、出演者が変わったことでの変化も意識した。既知であること以上の戸惑いを受け、様々なことを考えさせられた。一つは、このようなコンセプチュアルな創作を再演し、再演を観ることの困難について。一つは、この戸惑いすら、あらかじめ織り込まれているのだろうということ。
 「9.11」の場面を思い出すのだが、行為や思いについて述べる言葉を、同時に誰かが言葉で語り直すことで、元の行為や言葉が決定的に当事者性という緊迫感を失い、遠く干からびたものになる。山下はそれをしている。それをさらに再演することで、致命的なまでに輝きを奪おうとする。
 この作品は、京都芸術センターの「演劇計画」の一環として行われたが、ダンサーであるとされている出演者を使いながら、その身体から身体の枠を超え出ようとするものを徹底的に殺ぎ落とすという仕掛けをこしらえたということは、ダンスであることを提示しながら、ダンスであることを否定する、マグリットさながら「これはダンスではない」といった組立てだ。
 しかし、ぼくの印象に残るのは、今貂子のかかとが激しく床を打つ音だったりする。それは作品の仕掛けから逸脱したものとして、作品の一貫性からは排除されるべきものだったのか、このことすら山下には計算ずくのことだったのか。
 ぼくがダンスを観るときに重視しているのは、目の前で繰り広げられていることが、どれだけ言葉に還元しきれないものか、ということだ。作品の構成からでも身体のありようからでも、その言葉を超える何ものかの湧出に圧倒されたい。作品を享受し、批評の言葉を紡ぎ出すということは、そのせめぎあいの中で交換される相互行為だと思っている。
 その意味から振り返ると、今回の公演では、もっと徹底的な逸脱を見たかった。言葉に抑圧されながら、もがき続け、作家の意図を裏切り、はね返すような身体が、見たかった。こう思うことすら、既に織り込み済みのことではあるのだろうが。 (28日所見) 京都芸術センター「明倫art」所収

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