見出し画像

『ダンスの時間』サマーフェスティバル2008(16)セレノグラフィカ/吉福敦子「『短編小説』 シリトリジンギ」

 16日からの2日間には、セレノグラフィカの2つの作品、サイトウマコトの3つの作品を観ることになった。いずれも作品には振付家本人(たち)が入ったり入らなかったりだったが、ダンスの振付というものの多様性と同質性を垣間見ることができ、興味深いものだった。
 実は、セレノグラフィカに出演を依頼し、快諾を得てしばらくして、隅地さんから、1日2公演のうち1回はセレノグラフィカと吉福敦子さん、もう1回はセレノグラフィカ作品を花沙+升田学で踊らせたいという連絡があり、はいはいとあまり考えずにOKしたのだが、考えてみれば、何とか調整してこの2組に2回ずつ踊ってもらえばよかったのだ。残念なことをした。
 都合30組の日程調整は、といっても決して複雑なことではなく、都合の悪い日を聞いておき、あとはバランスを考えたり考えなかったりしながら、ポコポコと当てはめていく。少しは、集客力のありそうな人となさそうな人を組み合わせたり、集客力のある人をぶつけないようにしたり、ということは考える。その程度のことで、悩んだことはあるが、苦しいと思ったことはない。パズルのようなものだ。大変だけど、楽しい。

 セレノグラフィカと吉福敦子の「『短編小説』 シリトリジンギ」は、西陣ファクトリーガーデン、スタジオgooで続演されたものを短くした再演。共に元工場や民家のようなもので、いわゆる劇場で上演されるのは初めてだとのこと。阿比留修一、隅地茉歩、吉福敦子の振付、デザインコンセプト等が岩村原太、小道具の箱馬が青木勉、音響が小早川保隆、というコラボレートワークである。
 まず面白いのが、阿比留が3個の箱馬をマトリョーシカのように1つにする作業。無駄のない鮮やかな手つき、動きで、しかし段取りはことごとくと言っていいほど失敗する。見ていてイライラして、それじゃないだろ次は、と声をかけたくなるほど。しかし、もし箱馬組立作業なしに、動きだけを取り出して観ることができたら、それは非常に鮮やかな振付になっていたことだろう。いかにも無駄のない手際よさそうな動きが、実はものすごく不合理で非実用的でとんちんかんだというのが、言語的にも逆説的で面白かった。
 この場面は、箱馬と同じく、何重もの構造を持っている。舞台の上で作品として踊られているこの動きは、一見箱を片付けるという目的を持った日常的な行為の延長のように見えるが、舞台の上で作品として成立している以上、それは目的的ではない。しかもそれは何度もの間違いを繰り返しては、またはじめからまたは途中からやり直されている。その間違いだらけの日常的な行為を装った動きが、実はダンスとして(もちろん阿比留という優れたダンサーの身体によってだが)洗練された振付となっている。
 作品の冒頭だが、普通はぼくが何がしかのコメントをした後、いったん暗転し、作品の時間が流れ始めるのだが、この作品では暗転なしで3人がそれぞれ箱馬を持って出てきてポーズをとるところから始まった。それは、この作品の初演会場が、暗転できるところではなかったということもあるだろうが、幕間という作品と日常の中間ぐらいにある中途半端な時間帯をそのまま取り入れるということで、作品の時間の作り方として特異なことだったといえるだろう。作品が、いわば作品時間ともいえる枠の中に収められているのではなく、両端が日常時間に溶け出しているような感覚は、面白い。よく、開場するとすぐにダンサーや役者が舞台上に付いている作品があるが、それは、日常時間を切断して観客を無理にでも即時に作品時間に入れてしまおうというようなもので、これとはかなり異なっている。
 ダンスというのは、基本的には何も特別なものを使うわけではなく、観客の身体との延長上にある身体が舞台の上で何事かをするのだから、このような緩やかな作品への入り方というのは、非常に効果的になることが多い。前週のヤザキタケシも、あえて暗転を設けずに舞台スタッフのような雰囲気でサウンドチューブを置き、何食わぬ顔で引っ込み、通りすがりのようにまた出てきてサウンドチューブを「発見」するという細かい演技を見せた。日常と作品の落差を処理するのは、緩やかな傾斜を持たせるか、切断するか、いずれにせよ実は非常にデリケートな作業なのだろう。緩やかさの後に、いつの間にかすっかり作品の時空になっていたと気づかされる時など、その鮮やかさに本当に驚くことになる。
 その後は、タイトルどおり「しりとり」が続き、3人の即興的(?)なダンスとなる。もちろんといっていいのか、動きながらのしりとりではある。「らららひゅーまんすてっぷす」とか「くろさわみか」「かがやくみらい」とか「ついかんばんへるにあ」とか、平凡なしりとりではないが、さほどどうということはない。「箱を片付けている」「しりとりをしている」ということと「踊っている」ということが等価かどうか、ということを考えさせられる。
 つまり、ダンスでありながら、ダンスというものの特権性を問いかけてしまうという冒険が秘められている。隅地は自ら「規格外体型、規格外テクニック」と称しているのだが(あくまで自称ですからね)、彼女自身、ダンスする身体に伴う特権性を否定しているところがあるし、ダンスそのものに対するやや醒めた目を感じさせることがある。いわゆる「踊れる」阿比留の動きと、ちょっと「なんちゃって」な部分のある隅地の動きは、巧拙を(おそらく)超えて、魅力としては等価であるのが、セレノグラフィカの魅力であり、恐ろしいところだ。そこに吉福という、これまた独特な存在感のある、踊れるのに踊って見せない、温度を感じさせない身体が入ったことが、この作品の魅力を増した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?