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「18世紀の西宮~勝部如春斎を生んだ社会~」2017年4月

2017年に西宮市大谷記念美術館で開催された「勝部如春斎展」の講演会に伺ったときのメモです。

「18世紀の西宮~勝部如春斎を生んだ社会~」(講師:西宮市立郷土資料館 学芸員・衛藤彩子)

 勝部如春斎展にちなんで開催されている連続講演会の第3回、「18世紀の西宮」を聴講して来ました。以下、主なポイント。

  1. 如春斎(1721-1784)の生きた18世紀の日本は、綱吉から松平定信あたりまでで、多くの人が「江戸時代」といわれたときにイメージする像とほぼ同じような体制、風俗等ができていた

  2. 西宮は元は主に尼崎藩領だったが、1769年に中心地が幕府領になった。西宮は城下町ではないので「お殿様」はいない(尼崎にいたとも言える)。その分のんびりのびのびしたまちの雰囲気が出来上がったのかもしれない

  3. 西宮は京都からの西国街道、大阪からの中国街道が交わる地点、酒を江戸に輸送する廻船業の発達で、陸海の交通の要衝だった。そのことが経済と文化を潤した

  4. 西宮神社(廣田神社、西宮えびす神社等の総称)は、もともと神祇伯白川家の監督下にあったが、18世紀はじめに社内で権力争いがあり、今に続く神主の吉井家が制した

  5. 白川家は西宮での勢力を保とうとしたのか、辰馬主計(本町辰馬の4代目)が神主となって鳴尾村に砂浜神社を創建した。20世紀になって鳴尾八幡神社に合祀された

  6. 砂浜神社は本町辰馬家が鳴尾村の新田を開発した際に、復興建立したもので、非常に大きな地所を持っていた

  7. 新田開発は経済的効果で評価されてきたが、近年「会所」(管理事務所)のもつ文化的空間の役割が重視されてきている。cf.鴻池新田の会所

  8. 西宮には、大阪、姫路、明石、池田、京都など、様々な地域と、街道を通じて密接な文化人の交流があった

  9. 当時の庶民にとって、社寺のご開帳は大きな娯楽の一で、日帰りで京都の社寺にはよく出かけていた様子。伊勢には七日ほどで行けたようだが、領や村の境界を超えた伊勢講のネットワークができていて、毎月誰かが伊勢に詣でるという習慣が根付いていた

  10. 文化の伝播は、学問の師弟関係はもちろん、商売を通じた情報の流通、社寺の行司や参拝を通じた情報の流通の占める位置も大きかった。西宮は後二者がさかんだったことが大きい

  11. 今津にはさかんな儒学者グループがあり、曲江梅賓、介中拙斉、加藤艮斉、飯田桂山らの名が残っている。特に飯田桂山は今津海岸に1755年ごろ大観楼という儒塾を開き、著名な学者の招聘、後進の指導に力を尽くした。儒学者の中には、酒造家が多かった

http://otanimuseum.jp/exhibition_170401.html

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