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第2回「1940年代の詩」お話しのメモ

割引あり

はじめに

(お話し用に作った原稿メモです。粗いところや、引用個所の不十分なところもあるかもしれませんが、あくまでメモとしてご覧ください)

 1941年に始まり1945年に終った太平洋戦争、そして戦後、1951年にサンフランシスコ講和条約によって日本が(一応の)主権を取り戻すまでの10年間ということになるのですが、主には太平洋戦争下の営みを取り上げることになります。
 そこでキーパーソンとなるのが「国民詩人」三好達治です。1979年にまとめられた『現代詩読本 三好達治』(思潮社)は、三好達治に関する歴史的な論考やエッセイ、中村稔・大岡信・谷川俊太郎による討議「余情と伝統その虚飾の世界へ」と3人が選んだ代表詩60選、年譜、書誌、参考文献などの大変便利な一冊ですが、ここには鮎川信夫の「三好達治論」、マチネ・ポエティクの主要メンバーだった福永武彦の「最後の人」が収められています。
 三好は「マチネ・ポエテイクの試作に就いて」(「世界文學」、1948年4月号)でマチネ・ポエティクの作品について「同人諸君の作品は、例外なく、甚だ、つまらない」とした上で、根本的に日本語の詩において形式的な押韻は非常に困難で、脚韻の効果ははなはだ乏しいと断じています。
 これに対して福永は三好への追悼文で、「戦後、私が友人たちと定型詩を試み「マチネ・ポエチック詩集」を出した時に、三好さんは鋭い批評を下された。好意的悪評といったものだったが、三好さんの位置が、その発言に権威あらしめたために、この批評は決定的に私たちを敗北させた」(「天上の花」、文藝、1964年6月号)と回顧するなど、すぐにこの「運動」の矛を収めることになりました。
 しかしこの「三好さんの位置…権威」という言葉には、ある種の含意が感じられます。批評されている内容には全く納得していないが、三好の位置と権威からの言葉には抗いようもなかった、抗うのも無駄、というようなニュアンスではないでしょうか。
 鮎川は三好がマチネ・ポエティクを批判した前年、三好に対して「今日になって私は彼のような自然詩人に対してなんとしても不愉快でやりきれぬのは、いわば戦争中に私が敵意を抱かざるを得なかった「日本的なもの」に彼等が未だに凭れているからである。戦争を自然現象のように肯定して歌うというような、反思想的な自然詩人に対すると、私はすっかり逆上してうまく物が言えなくなるばかりか…」と痛烈に非難しています。(「現代詩」1947年10月)。 
 こんな三すくみが、1940年代前半にあったということを念頭に、それぞれの作品を読んでいこうというのが、今日の第一部の主題です。

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