見出し画像

『ダンスの時間』サマーフェスティバル2008(24)尾沢奈津子「LEAVE, 2」

 9月も半ばを過ぎたころ、神戸の栄町あたりにあるギャラリー開に行ったところ、ご主人から「ダンスの時間」で司会をされてた人ですよね、と声をかけられて驚いたのだが、そういえばアンサンブル・ゾネの岡本早未さんが以前ここで即興ソロを踊っていたのだから、第1週に観に来ていただいていたのだ。次週には岡登志子さんが即興ダンスを披露されるそうで、じゃあ宣伝しときます、と言ったものの、あんまりたくさん来たら入れませんね、と笑うことになった。
 岡さんは、芦屋市立美術博物館でもピアノの高瀬さんと即興をやったし、その前は国際美術館で内橋和久さんと。なんだか軽いフットワークでダンスへの間口を広げようとしているようだ。何かやらなきゃと言いながらぐずぐずしているわが身を顧みると、恥ずかしい。
 その数日前には甲南大学ギャラリーパンセの館勝生展のライブペインティングで田中美和さんや善住芳枝さんに会い、現代美術もダンスもなかなか動きがない状態やし、お互い何かせなあきませんね、などと言っていたし、確かにこのままではジャンルの内側で内輪だけの互覧会で終わってしまうのだ。その意味で、ジャンルを横断する形でのコラボレーションは、平凡な発想かもしれないが重要なことだ。

 尾沢奈津子は、演劇関係に広い人脈を持っていて、主宰するN-TRANCE Fishの公演にも伊藤えん魔(ファントマ主宰)が協力・出演しているのをはじめ、しばしば2時間を越える長い公演全体に、はっきりしたテーマを設けて、ショー仕立てというよりはやや濃厚な物語性を与えている。演劇と接触するきっかけは、いくつかの劇団でダンスの指導をしたことだったかもしれないが、その要素を自分たちの公演の中に組み込んでいこうとしているのが面白い。もちろん、ラスベガスでも宝塚歌劇でも、ショーにおいては濃淡はさまざまながら、何らかの一貫性を保つために、テーマは設定されている。ただ、それらは歌詞やセリフという言葉によってテーマがいっそう追いやすいものとなるし、コンテンポラリー等のダンスでは、たいていそれに比べればわかりにくいとされている。尾沢は特段の気負いもなく、あっさりとその境界を踏み越えて、ダンスを楽しめればいいじゃないかとしているようだ。そのことで、多くの演劇関係者が、最初は自分たちの舞台への必要からダンスにふれ、中には後にダンスの魅力に開眼した場合もあっただろう。
 そういうふうに、おおぜいの共演者とともに、外に広がりを求める仕事に精力的に立ち向かう尾沢が、ソロを踊ったのが今年1月「ダンスの時間」18の「LEAVE」だった。そして7ヶ月後の今回が「LEAVE, 2」(笑)。
 行進曲のようなアニメソングのような勢いのいい曲が始まって、尾沢が体操か手旗信号のようなカクカクした激しい動きを繰り返す。既に汗だくである。その後、やや動きが小さくなって壁を伝ったりもするが、足の爪先で壁を探ったり、壁に体当たりしたり、床置きのスタンドの照明に突進したりと、動きは激越なものになっていく。
 前回もそうだったが、今回も後で話を聞くと、あまり踊っている最中のことは覚えていないらしい。憑依やトランスというようなものと同質なのかどうかはわからないが、激しく動くから覚えていないのか、覚えていない状態になるから激しく動けるのか。あるいは、激しく動くということと、覚えていない状態であるということに関係があるのか。そうではなくて、覚えていない状態でしかも動かないという状態もあるのではないか。
 尾沢を「ダンスの時間」に誘ったのは、簡単に言えば、カンパニーを背負うような形ではない尾沢の、素のダンスが見たかったからだ。自分の踊りのことだけ考えればいい状態で踊ってほしいと思って、声をかけた。前回はずいぶん緊張していたようにも思えたが、今回の特に夜の公演では、おそらく彼女のダンスの美点~勢いや思い切りのよさ、スピードと言った激しい面だけでなく、心細さや不安や、がんばって孤独な部分も含めたリアルさのすべて~が存分に発揮され、尾沢というダンサーが選ばれて(ぼくにではないですよ、言うまでもなく)舞台の上に立っていることのすさまじさのようなものがにじみ出ていたように思う。
 忘我の境地というとカッコよすぎるかもしれないが、小柄で金髪で案外キャリアは長くて、ものすごくよく動く身体と関節を外すようなユーモアを持っているこのダンサーは、踊っているうちに定められえた軌道から逸脱して、はじけ飛んで、どこかへ行ってしまいそうだった。何かと戦っているような動きが見られたのは前回も同様だが、今回はそれがいっそう内面化されているように思えた。ソロの20分間は、すべてを自分で創らなければいけないわけだが、そのことの大変さと楽しさを味わっているようでもあった。もちろん、冒頭の応援歌のようなもので、一つの世界を始めるきっかけはわりと簡単につかんでいるようだったし、それをラストにも置いたことで作品の両端をきっちり結んだのはよくある手法にも見えた。しかし、それをぶっ潰すような奔放で不定形な中盤であることが、非常にスリリングだったし、涙ぐましいほど必死で足掻いた果てに、また応援歌が流れてきて、疲れ果ててはいるのだけれど、また始めますか…と繰り返していくような流れは、シンプルながら、中盤の逸脱の激しさがなければ説得力を持たない。スケールの大きな作品だったと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?