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神戸女学院大学音楽学部舞踊専攻第9回定期公演(2015.3.)

 今回は島崎徹教授の作品が4点、客員教授のオーウェン・モンタギュー氏の作品が1点。

 最初の「Here we are!」は、第1回からずっと上演されている、この専攻の定番となっている作品。若干の改変はあるようだが、すべての出身者がこの作品を踊れる、というスウィートホーム的な作品になっているのがすばらしい。少女らしい愛らしさと共に、その限度というものを知らない激越さが見てとれる、多面的な作品だ。1回生と2回生が踊ったが、2回生の一部に明らかに着実に柔らかさや表情の落ち着きが出てきた学生がいるように見え、頼もしい。

 ただ、特にコミカルな部分について、ちょっとやり過ぎていないかどうか、勢いよく跳ね飛ばしはしても放り投げてしまうのはどうか、と思われた部分がなくはない。

 4回生による1作目「Zero Body」は、昨年の「なにわ芸術祭「全日本洋舞協会合同公演」」(ダンサーは公募)で初演された島崎作品。12月のこの卒業公演でも上演され、今回は彼女たちにとって再演となる。

 これは全員が出ずっぱりで、人数の組み合わせによるフォーメーションがめまぐるしく変化し、足の裏を張り付け、下半身を落とした粘りのある動きが波のように響きのように延々と続くという、運動量も緊張の持続もすさまじいばかりの作品だ。服部千尋のエッジが鮮やかに立ったシャープな動きに目が留まったかと思えば、三崎彩の身体を開くときにぎりぎりまで溜めてパッと開くその時に花が開くような音がしそうだと、あるいはユニゾンの気のそろい方、次々と繰り出されるソロのキックの鋭さや身体を沈めた時の大地を掘るような深さがいちいち感動的だ。上げた腕を誰かが下ろすという行為が、とても象徴的に思えるが、より大きな物語の中でどのような出来事の象徴であるかがはっきりとわかるわけではない。しかしそれが何か決定的なことであるとしか思えない。冒頭にも舟を漕ぐような動きが提示されて、それでいきなり大きな波に巻き込まれるような感動に襲われたのだが、それがなぜか、何によるのかは、わからない。

 たとえば、3人いるところへ3人が走りこんできて、2人×3組になったことで、人と人のペアというものができ、そこへ歩いて入ってきた3人を含めて2人×3組+1,1,1となったかと思うと、一列になって5人と4人に分かれる…そんなフォーメーションの流れるような変化が、人の出会いと別れや生と死、生成と消滅のように思え、また個々のダンサーの中でもリリースやコントラクションが絶え間なく繰り返されて生成と消滅が反復される。そんな事どもが堆積されて、閾値を越えたときに、大きな感情の動きに襲われる。そういう鑑賞体験だ。

 休憩を挟んで、2回生によるモンタギュー氏の作品「Librarsi」。タイトルはイタリア語で、均衡を保つ、宙ぶらりんになる、という意味。かなり不安定でカウントしにくいアシンメトリーな動きが多用されているが、皆うまく捉えているのは、練習量の賜物だろう。1回生の時に比べて、動きに格段に柔らかさが出て、個性的な表現ができるようになって来たダンサーが増えた。それとは裏腹なようだが、全体としての流体性が生まれてきたように思えるのが、面白い。個性的になることと、全体としての調和が生まれてくることが矛盾しないのは、非常に興味深いことだが、自明のことかもしれない。

 それでもやはり、特別出演の卒業生・水野多麻紀の動きは格段に滑らかで、空間の中のほんのわずかな裂け目に吸い込まれるように移動しているように見える。水野の身体を見ていて初めて気づくのだが、身体がその核となる点に向かってどれだけ求心していられるかが、人間を重力の自然な方向性から解放する唯一の方法なのではないかと思った。

 そう思って再び2回生の身体に目を戻すと、さらなる求心性を獲得すること、あとは体力をつけることが必要なように思われた。

 今回3回生唯一の出演作品は、島崎作品の「Blue Snow」。9人全体が一つの軟かい生命体のように動く。この学年は一人ひとりの個性が強く粒立っていて、そのことによる色彩の混淆が楽しい。たとえば音のポイントの捉え方一つとっても、少しずつ違っているように見えるのだが、その微妙なずれが激しさとなって迫ってくるという強さを生み出せている。終盤になって、非常にメロディアスに、大間を取って歌い甲斐のあるところで、わずかながら身体を押し出す力にばらつきが見えるのが惜しかった。

 それは、一言でいえば体力ということなのだろうが、体力が残っていなくても、胸骨をもう数mm前に出したり捻ったりするようなことが、できるかできないか、できるとすれば何の力かと探してみた時に残っている力のようなものだ。その果てに、魅惑的なブルーのホリゾンライトでこの作品が幕を閉じたような、明るさのない光のようなものが見えてくると思う。腕が一番遠いところを通って戻って来るかとか、動きにどれだけブレーキを利かせられるかとかは、そういう数mmにかかっているのではないか。

 最後も島崎作品で「For James」。おそらく島崎の「Feather」などを踊り、トロント・ダンス・シアターのステージ・ディレクターだったJames Robertsonのことだと思われるが、詳細はつかんでいない。古川愛実、服部千尋、小林望、久住早希、三崎彩、宮本萌、中村つく偲、渡邉はるか、宿里美咲の9人の4回生の学生最後の舞台となった。相川友貴、仙名立宗、柴一平、鈴木明倫、矢木一帆の5人の男性ダンサーをゲストに迎え、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第9番通称クロイツェルを使った作品。余談だがこの曲がトルストイに同名の小説を書かせ、その小説がヤナーチェクに弦楽四重奏曲を書かせたというから、すさまじい触発力を持っているようだ。

 島崎の作品は、音楽との幸福な同調が気持ちよく、多くの場合作品の主題や展開を忘れて、刹那的に音と動きのうねりに身をゆだねて酩酊してしまう。彼が多用するアルヴォ・ペルトや中東の音楽の持っている、螺旋が外向と内向を反復するような快感が、身体に直接的にねじ込まれて、ダンサーの動きとなってスパークする。だからダンサーには、まず音楽を身体に入れることが求められ、その上で、音楽に乗ったり反撥したり多彩に反応することが求められるのではないか。

 やはりすさまじかったのは、ベートーヴェンの中に島崎がスパイラルを見出し、それが若いダンサーたちにねじ込まれ、ぼくたちも運動体となったベートーヴェンを見出せたということだ。

 たとえば袖から2人のダンサーがすごいスピードとすごいブレーキで飛び込んでくる時、第一義的には身体の移動の可能性と限界の極限を見せることなのだが、ヴァイオリンの擦弦という行為そのものであり、ヴァイオリンというものが、摩擦によって音を出すものでありながら、流麗にメロディを奏でるという矛盾態であることに気づかされるようなメタな様態でもある。ヴァイオリン、そしてダンスの魅力とはそういうものだ、と確認させてくれる。

 クロイツェルソナタの原題は「ほとんど協奏曲のように、相競って演奏されるヴァイオリン助奏つきのピアノ・ソナタ」だそうだが、この後の手に汗握るような動きの展開は、ヴァイオリンとピアノの絡み合いというだけでなく、男と女、動きと静止、上昇と下降など、二者が対等に協奏することが現前したようで、息つく間もなくスリリングだった。

 この学年は、目立って鮮やかなダンサーがいると思っていたのだが、学年を重ねるにつれてその差が縮まってきたように思う。それは目立つ者が怠惰であったのではなく、その存在に引っ張られて他の者がすさまじく伸びたからだ。この最終公演の2作品の充実ぶりは、9人それぞれ粒が揃いながら個性と表情を余すことなく見せ、しかも彼女たち一流の上品さがあって、圧巻だった。

 その結果、個々の身体が同時に二重性を抱えることができている。曲のテンポが緩やかであるが動きが速い、あるいはその逆の場合に、身体の中に鋭さと鈍さ、穏やかさと激しさが同居しているので、個々のダンサーの中で力強い回転的な運動が生まれている。それは一つには、島崎作品の特徴である音楽との緊密な関係によるのだが、そこには音楽と動きの単線的な対応だけでなく、遅れと焦燥、先取りと苛立ちといったような、はか(捗)が合わないことによる様々な感情が生じているように思う。それが、島崎作品における身体特有の、感情を強く喚起する力になっているのではないか。

 終盤、一人ずつの乱舞からユニゾンになる。短調でも笑顔だった。強く生きて、踊り続けていってほしい。

(2015年3月6日兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール)
For James https://youtu.be/UXPJQvPY8AY

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