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黒沢美香&神戸ダンサーズ 「jazzzzzzzzzzzz-dance」(2015.2)

Art Theater dB神戸(神戸・新長田)
構成・演出・振付:黒沢美香
出演=東沙綾、文、伊藤愛、内田結花、川瀬亜衣、きたまり、北村成美、下村唯、田中幸恵、寺田みさこ、中間アヤカ、福岡まな実、藤原美加

 黒沢美香は、幼時からモダンダンスを両親に習い、1980年代に渡米、ポスト・モダンダンスの動向を追って、帰国後日本のコンテンポラリーダンスの草分け、中心的存在として活動している大きな存在である。
 モダンダンスは舞踊によって何かを表現するもの(特に感情・心的表現)で、その感情の高まりをもたらすために物語や政治・社会問題を取り上げることも多い。コンテンポラリーダンスはそのような意味性とかテーマ性よりも、身体や動きの価値や魅力を自由かつ多様なコンセプトを駆使して表現しようとするものだといえる。
 その意味で、この作品は徹底的にコンテンポラリーダンスだったといえる。つまり、徹底的に無意味であると感じられ、観客は身体そのものから発する強い迫力のようなものに完璧に打ちのめされたということ。
 それ以上は既に何も語る必要はないのだが、ひたすら尻を振る、奇形を模したかのような奇妙な衣裳(衣裳:山本容子、渡守希)、奇妙な化粧は、ダンサー及び身体の美しさやかっこよさがあるとして、それを押し出し強調するのとは真逆の、かといって醜く見せるというのとも違って、違和感を持たせて、ダンサーの存在そしてダンサーを見 る観客の意識を強調し、浮き立たせることに渾身であると思われた。ただ尻を振るだけのことが繰り返されると、観る者もだんだん透明になってきて、尻振りを見ることに長けてくる。やがて、誰某の振り方は左のほうに偏り気味とか、切れがあるとか、背筋の固定が足りないとか、違いがわかってきてしまったりする。これまた意味がない。 
 強い意志として感じられたのは、動きや動きの流れに意味を持たせないことへの徹底的な固執であり、そのために少なくとも作品の前半は、かなりバラバラで退屈であり、苛立つもののように思えた。しかし、この退屈さ抜きでは、徹底的な無意味さというものは招来されなかった。どこかで一瞬でも意味や脈絡がもたらされたら、無意味さが崩壊してしまう、そういう徹底性だ。完璧な無意味さを作り上げるために一寸の揺るぎも許さない。すさまじいまでの徒労であるともいえる。つまり繰り返しになるが、ぼくたちがここで投げつけられたものは、意味や美しさや物語を抜きにした、単なる徹底的な(純粋な)強さやエネルギーや迫力といったものだ。これによって観客が味わったものを仮に感動と名づけておくことにして、この感動が心地よいものである必要はなかった。
 ダンサーはこの作品をつくる過程で、ある空虚になることを求められ、そこに黒沢のコンセプトや言葉や思いが注ぎ込まれて充溢しただろう。個々のダンサーが一旦空虚になり、再び充溢した身体を舞台に上げる時に、ぼくが見えるのはそれでも空虚だ。
 事実以外の物語や、発揮されるイマジネーションや、観客自らのイリュージョンではなく、ただ目に見えるだけのことでこれだけの迫力を受けるということは、あまり例がない。押し寄せてくる空虚。大量の空虚に攻め寄せられて、それが充溢のように錯覚する数瞬があるが、その後の疲弊は大きい。ただその疲弊は、残らない。すごかったという思いだけが残っている。
(写真はdBのFacebookから)

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