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Monochrome Circus「HAIGAFURU Ash is falling」(2015.1)

京都芸術センター
振付・演出:坂本公成、演出助手:森裕子
照明デザイン:藤本隆行、作曲:山中透
出演:森裕子、佐伯有香、合田有紀、野村香子、渡邉尚

 2012年春に、フィンランドでかの地のダンサー5人と滞在制作した作品で、その後鳥の演劇祭、神奈川芸術劇場と再演を重ね、今回初めて日本人ダンサーに振付けたという作品。東日本大震災と原発問題を契機に、三好達治の「灰が降る」 という詩をサブテクストに置いて、「核」の問題から身体とダンスの未来を考察した作品、というのが触れ込みである。
 開演ぎりぎりに入ったので、舞台全体を見渡すには少々苦しい席だったが、傍らを通って2人のダンサーが舞台に下りていった。その時に、彼らの体温と生きているもののにおいを確かに感じ、「生」というものを強烈に刻み込まれたように思っている。このことが、この作品への印象を決定づけた。だから、他の観客の印象とは異なっているかもしれない。しかし、この作品は、そういう生々しい、地を這いずるけもののような存在が人間であることを認識させたといってもいいだろう。あるいは、そのような存在であることを希求させるような。
 1月16日という日に見たものだから、というか1.17を挟んでの公演日程なので、少なくとも阪神間の人間にとっては当然のことでもあるのだが、この作品を触発した3.11を意識するのと少なくとも同程度には、1.17を意識する。作品の音や光にさらされながら、1.17についてぼく自身は、悲惨さに身をもってえぐられたことはなかったなと、一種の痛みを伴って改めて思わせられもした。それほどに、音と光、そしてうごめく身体の喚起力が強く、激しいものだった。
 それは直接的には光と音から導かれた。光は粒子のように絶え間なく降り注いでいたし、音は何かが圧潰する時のように空気を震わせていた。スピーカーが震え、LEDが様々な色で明滅しているだけのことだったのに、何かが切迫しているように思われた。その中で這いずり回るダンサーは、世界の中でとても小さく、しかし世界に対してとても果敢であるように見えた。
ダンサーの動き、作品の構成は、いたってシンプルだった。舞台のツラから奥へ、また奥からツラへ、若干の動きのバリエーションを持たせながら往復する。それが海の波のように思えたり、津波によって流されていったり流れ着いてくる何ものかのように思えるのは、こちら側の想像力によるものでしかない。三好の詩が単調な七五調であり、諧謔味を通り越して悪ふざけかやけになっているようにも読めるように、このシンプルさは徐々に、単調な音頭か何かのように心地よくも思えてしまう。ダンサーが個であることを超えて、自然とか時間とか、大きな静的なものに連なっていく。
 左段の写真は変わった折り方をしたチラシの画像だが、この倒立するダンサーを見た時、それが「突っ立った死体」 であるように思えた。人が死んだ時に、ぼくはそれを死体としてでなく、墓標として見るのだと、認識させられもした。または、ぼくは死体を死体として見ることができず、墓標として見てしまうような人間なのだなと。身体とは、実体なのか、それともやや時差をもって遅れて立ち現れる表象(representation)なのか。今観ているこの舞台の上で行われていることは、既に過去のことなのではないかという錯覚だ。
作曲の山中、照明デザインの藤本は、共にダムタイプ のメンバー。ある限定的な設定において緊迫した時間と空間を生成させることについては、超一流な人たちだ。その音と光は、激しさであったにもかかわらず、無である~無音であり、闇である~ことにも連なっているようだった。話を急げば、世界の終わりを飾るのに、最もふさわしい選択がされていた。
 それは、三好の詩に則れば、「お月さま」の視点だ。ついでのことに、65000年だか、65万年だか後でもいい、そこにも、過去の映像のループかと、地球の上では何ものかが這いずり回っていて、音や光は摩滅してしまって既に感知はできないのだが、痕跡としてだけ漂っている。その視点とは、他ならず坂本公成の視点である。この作品の激しさと静かさと単調さは、時間を忘れさせる力を持っている。その坂本の視点を共有した上で、たとえばウラン235だかの半減期は7億年だとかいう話を聞くと、その途方もなさに目眩のような感覚を覚えるが、核や原発や最終処分施設やという地点からスタートして、末期の眼 にも似た静かな、恐ろしく静かな光景が見えて、遠いところまでたどり着いたなと吐息が出る。

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