見出し画像

『ダンスの時間』サマーフェスティバル2008(27)村上和司「じんあい(仮)」

 村上和司は今回はRED MANではなく、白いシャツに黒いズボンと、高校生のような出で立ちのソロ。「じんあい(仮)」というタイトルは、さまざまな漢字を当てられ、さまざまな意味を持ちうるものとして。塵埃、仁愛…というわけか。
 多くのダンサーが壁を強く意識するのは、なぜなのだろう。劇場の舞台という空間の中で、何かにぶつかるとすれば、壁であるからか。自己確認という意味からも、居場所の拡張という意味からも、壁にぶつかったり、壁を這ったりすることが大きな意味を持つのだとしたら、舞台という空間の中に在るということは、茫漠とした架空の果てしない空間の中にポツンと置かれているような寄る辺なさそのものであるということなのだろうか。もちろん、壁を支持体として使いながら立つことで、身体の平面性を強調することができる。また、奥の壁であれば、客席から最も遠い地点に立つことができる。
 村上は、壁をかきむしるような動きを執拗に見せ、壁と関わる動きを強調した後、床を転がって、つまりは90度倒した動きを見せるような形で、作品を空間的に構成したと解していいだろう。もちろん動き自体は鋭くスピーディで華やかだから、さまざまな多義性があるように見えるが、作り自体は、平面への格闘2種だったといえる。
 あまり言葉で解釈しすぎるのはどうかとも思うが、それが床に積もった塵埃またはそれへの関わりのようであると言われればそのように思えるし、舞台上には見えない誰かへの働きかけであれば、人への愛だということにもなる。
 村上の作品には、観客への強いアプローチや、水や衣裳を使って「わやくちゃ」にしてしまうような強烈な笑いの要素、そして男前な美しい動き、と多くの見どころがあるが、今回の作品は比較的けれん味の少ないおとなしい作品だったといえるだろう。それだけに、ストレートに見えてきたものがある。
 昼公演と夜公演で、ずいぶん印象が変わって見えたことからも、即興性の高い作品だったことは想像できる。そんな中で、動きが速いためにあまり意識したことはなかったが、村上の立ち姿が、ずいぶん味のあるものであることに驚かされた。動きの潔さについては、以前から気づいてはいた。それにも増して、よく「たたずまい」という言い方をするが、そのような味わい。それはどうしても動的な状態で感じ取れるものではない。にもかかわらず、それを感じたということは、速度の中に静止を、または型を宿した状態であるのではないかということになる。それは最近になって獲得されたものなのか、現れるようになったものなのか、あるいはコミカルな意匠のない作品だったから見えやすかったということなのか、いずれにせよ、鬼に金棒と言っては変だが、発想の「わやくちゃ」ぶりと、端正な身体を併せ持った、ちょっとすごいダンサーになりつつあるようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?