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舞台遠見7 リアルの怖さ

 だいたい年度始めは公演が少なく、舞台ウォッチャーとしては穏やかな週末を迎えることができます。といっても穏やかなのはスケジュール的なことだけで、やはりすごい舞台に出会うと、心揺さぶられ、劇場を出たとたん時間や空間がゆがんでいるような思いにとらわれます。
 一つは、1947年のシンガポール、チャンギ刑務所を舞台に、泰緬鉄道建設現場での捕虜虐待のかどでBC級戦犯となった日本人と朝鮮人(戦争当時日本領だったため、日本軍側で捕虜監視員となっていた)を覆うドラマを、二時間半にわたって描ききった鄭義信の『赤道の下のマクベス』(2018年4月5日、兵庫県立芸術文化センター)。東京(新国立劇場)で約20日間の公演の後、兵庫県立で2回、豊橋と北九州で1回ずつ上演されたものです。
 そういうジャンルがあるなら、死刑囚物です。ほとんどが末端の現場での実行者でしかなかった者で、日本人も朝鮮人もいる。まだ大本営を信じている元大尉がいる。その大尉に忠実な元部下もいれば、彼に憎しみと殺意を抱いている朝鮮人もいる。複雑な人物構成ですが、絞首刑に向かっていることだけは共通しているのです。
 舞台はシンプルです。両端に並ぶ独房、奥に大きな鉄の扉、シモ手手前に水道の蛇口、中央の広場に縁台、そしてこれが一つのポイントですが、奥の高いところに絞首刑台があらわに囚人たちを見下ろし、運命を突きつけているようです(美術=池田ともゆき)。
 エリザベス・キューブラー=ロスの『死ぬ瞬間』(1969年刊、1971年邦訳)では、死病を宣告された患者が死を受容するプロセスとして「否認」「怒り」「取引」「抑鬱」「受容」の5段階があるとしていますが、この死刑囚たちは病いではなく、いわば「強いられた罪」を着せられた結果として死刑を宣告されたのですから、「否認」「怒り」がはるかに強いのは、当然のことでしょう。その強い怒り・憤りを中心に、悲しみ、望郷、悔恨、疑問、自己正当化…といった様々な激しい感情をほとばしらせるのが、池内博之、浅野雅博、平田満ら役者たちの見せ場、劇の見どころです。平田の柔らかさ、池内の硬軟織り交ぜた自在な悲しさ、浅野の元大尉の頑なさをはじめ、観る者の脳裡にはっきりと刻印されるような演技でした。
 作・演出の鄭は、1957年姫路市出身の在日コリアン三世、映画『月はどっちに出ている』の脚本や、演劇作品『ザ・寺山』『焼肉ドラゴン』(映画化、2018年6月封切)等で知られています。彼の作品の面白いところは、どんな絶望的な状況、どんな底辺の環境でも、底が抜けたようなユーモアが展開されることです。そして、現実を題材にして、まるで現実を再現したような舞台だと思わせるということは、現実をはるかに超える濃密なドラマが凝縮されているということです。
 題名にマクベスとある通り、元大部屋役者のパクがシェイクスピアの『マクベス』を余興で演じたり、独り言のように呟いたり、会話に引用したりしています。どちらも運命というものへの抗いがたさが大きなテーマとなっていて、その結果として人は罪を犯してしまうのですが、それは自ら望んでそうしたのか、やむを得ずそうしたのか、自分でもわからなくなってしまっている……そんな混濁から終末への否認や怒りの複層性が生じるのかもしれません。戦場という極限的な場面では、命令や指示や志願や残酷や狂気が入り混じり、一方的な被害者・加害者がいたとはいえないでしょうが、かといってみんな止むを得なかったのだとして安易に総懺悔するだけでは決して収まらないという状況が提示されたのが、当時から現在まで至るこの日本への痛烈な批判になっているのではないかと思います。

 現実にあった出来事を題材にしたお芝居としてもう一つ、山口茜の作・演出、トリコ・Aという劇団の『私の家族』を挙げておきましょう(5月31日、東心斎橋・ウイングフィールド)。2012年に尼崎で起きた、主犯格の女(お母さんと呼ばれている。天明留理子)がいくつもの家族を追い詰め、乗っ取るようにして財産を奪い、殺害に追い込んだ連続変死事件を下敷きにしたものです。
 この劇がすさまじかったのは、普通の(って何?というわけですが)女性が、あっという間に追い詰められ、ふと気づくと向こう側の人になってしまっていること、普通の女性が、気づくと実は周囲を追い詰め精神を変形させてしまうとんでもない力を持っている存在だったということが、ごく自然に流れるように演じられ、示されるところです。
 それが観客にも伝染していたのか、そこに積極的な悪意があるように思えなくなっているのです。リンチや盗み、恐喝、当たり屋と様々な犯罪が起き、瀕死の女が床下に投げ込まれているという事態が2回も起きている……こんな現実を目の当たりにしているのに、しょうがないよねーとか、これは逃げられないなぁと思ってしまう私たち。マインドコントロール、洗脳というと、とてもおどろおどろしく、まがまがしい出来事のように聞こえるのですが、まさに劇場の小さな空間の中で、観客まで巻き込む形でそれが起きていることに立ち合わされます。
 もちろん、ある程度の違和感はありますし、どこかのきっかけで戻って来れたのにという悔恨が付きまとい立腹のようにもなります。それも含めて、演劇というものの臨場感を切実に感じさせる舞台でした。
 若者が脱走して自首したことから、この擬似家族は崩壊します。しばらくの歳月の後にか、そこを訪ねた二人が愛を求めるような言葉を交わして、この劇は終わります。それが本当の愛なのか、依存のようなものなのかが判断できず、やはり観る者は再び不安になったまま終わります。後味の悪い劇です。カタルシスはありません。そのようなものなのだな、世の中は、と思わされます。ここからは何も学ぶものはなく、私たちはここから何かを学べるような者ではないようです。

「沖ゆくらくだ」No.7所収
写真は、「私の家族」チラシ(部分)

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