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『ダンスの時間』サマーフェスティバル2008(18)東福寺弘奈「コンセント」

 サイトウマコトは、東福寺弘奈に新作を振り付け、佐藤玲緒奈(スロヴァキア国立バレエ団)の再演を出し、生田朗子(元リリパット・アーミー、現在フリー)、佐藤と「RESONATE」を再演した。生田さんはフリーになって初めての舞台であるという。光栄だ。東福寺も佐藤も、優れたバレエダンサーである。先ほどの話の流れで言えば、スピーディでスムーズでダイナミックな、洗練された動きで踊ることのできるレベルの高いダンサーだ。そしてしばしば軽視されるが、実は優れたバレエダンサーは物語の読み込みが深く、それを身体の高いレベルで表現できる才能と訓練ができている。そのようなダンサーと共にサイトウが創る世界は、しばしばダンサーに大きな負荷をかけるような仕掛けや物語や枠組みを設ける。

 最もわかりやすい表われが、東福寺弘奈の「コンセント」だと言えよう。これは、東福寺がスイス留学中に踊ったヨハン・ヘックマン振付作品の一部分に当たる東福寺のソロパートを、解体・再構築したものだというが、何よりもその髪の毛を高くきつく束ねて天井からゴムとチューブで接続した時点で、完全にサイトウの作品になっていたと言っていいだろう。
 開場前から既に東福寺は天井から繋がれた状態で舞台中央に黒布で覆われている。暗転の間に舞台監督が黒布を取り去って照明が入り、作品の時間が始まるというわけだ。この作品の、というかこの仕掛けの解釈は難しい。逆にその多義性こそがコンセントということの本質であるといったほうがいいだろう。冒頭から囚われの王女のような虐げられた悲しさを見せ、後半では何ものかと繋がってあることの喜びをも見せた東福寺の表現力には、唖然とさせられるばかりだ。ただ顔の表情のことを言っているのではない。身体の表面にそのような表情をもたせうることを教えられたような気がしている。繋がれた/繋がった状態であることの感情を、状況は同じでありながらがらりと変えて見せられたその契機は何だったか? もちろん舞台の上でのきっかけは、音楽が変わったということだったかも知れないが、繋がれてあることの不自由さが、繋がっていることの幸福感へ転化する時の、東福寺の全身の輝きといったら、すさまじいものだった。その転化は、解釈のしようによっては、異常性につながるものであるかもしれない。束縛や支配という面から見るか、コミュニケーションや交流という面から見るかによって、プラスとマイナスが逆転する。
 中央を空けて舞台に敷かれていたのは、スカートだったそうだが、それはまるで蓮の池のように見えた。そこを舞い踊る東福寺は白鳥のようにも見え、一つの意味づけの変換によって世界ががらりと変わるというドラマを生きた。動きの美しさやシャープさについては何の文句のつけようもなくただただ見とれるばかりだったが、特にゆっくりと屈み込み、また起きる時の曲線の角度のゆるやかな変化が、とても美しかった。それ自体がハイスピードで見せられるバネのしなりのようで、チューブで吊るされるにはまことにふさわしい身体だったのかもしれない。その曲線の変化によって表わされる、何かを拾い集めるようなしぐさは、これからの歳月にとって大切な何かを、落としたものを拾うのか、新しく拾うのかはさておき、再び自分のものにしようとする「回復」の作業のようで、心にしみた。
 この作品の時間は終わり方も難しくて、というのは何とかして吊っているゴムから彼女を解放しなければいけないからだ。最初は振付のサイトウ自身が脚立を運びこんではさみでゴムを切り、ぼくが「振付のサイトウマコトです」と紹介したのだが、どうも居心地が悪いというので、夜は舞台監督がゴムを切った。こういう細かい段取りの変更も、けっこう楽しい。

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