見出し画像

『ダンスの時間』サマーフェスティバル2008(23)吉福敦子「クロノス/メビウス」

 吉福敦子は、「クロノス/メビウス」というタイトルからも想像できるように、時間をテーマとした作品だ。舞台中央に12枚の小さな鏡を円形に並べ、カミ手の天井から水を入れた傘袋を吊るし、針で穴を開け、金属のボウルで水滴を受ける。吉福は鏡の円の中心に立ち、そこから一歩も外に出ない。そういう意味で動かない。
 序盤は上体もあまり動かない。腕や指で形を作ったりはするが、身体の軸は動かない。水滴がボウルに規則正しく当たる音が時を刻んでいるようで、円状の鏡は日時計のようなものなのか、するとその中心にある身体は、時の柱として存在するのか、というようなことが想像されてくる。
 何かの契機があったのだろうか、膝が動き、一歩が出、腕が放たれ、腰が曲げられる。動きの増幅には各段階でそれぞれの契機があって、そのたびに自由度が増したり、動かねばならない制約が増したりするのかもしれないが、それを知ることはできない。しかしその動きは、腕を伸ばすことに限らず、空間を斜めにスライスして顕微鏡の標本のように切片を作ってしまうような鋭角な切れ味を持っている。潔い身体。
 実は、この作品のタイトルを「クロノス/タナトス」だとずっと思い込んでしまっていた。タナトスとは、エロスに対極する、死への欲求、方向性を指すが、ぼくの中で並列されてしまったのは、時が経つことが死に向かうことに他ならないという感覚があったことと、いかにも死に向かっている存在として、限られた舞台の空間と時間を直線的に構成した作品だったように思い込んでしまったからだろう。日時計と水時計を模した装置を配した舞台の中で、さらに限られた空間の中で、緊張した緩やかさからスタートし。徐々に身体の軸が揺れ、鞭のようにしなってゆく上体。見た目に派手な動きではないが、空間が限定されているので動きの変化が非常にわかりやすい。他には何もない世界で、ただ一つ動いている生物。他に動いているものといえば、水滴と、定かには見えないが太陽の位置だけだ。
 後半、マーチのような音楽が小さな音で流れ始めた。時間の経過が徐々に世界を変質・変容させて、メビウスによって表わされるねじれとなって形をとる。そういえば、上体から腰の動きも、ねじれるような激しいものになっていく。
 作品づくりのプロセスには、足し算と引き算があるとよく言われるが、この作品などは両方をうまく組み合わせて、しかもミニマルな構造になったといっていいだろう。ミニマルというと、ただそぎ落とす方向での作業と思われがちだが、それだけでは痩せていく一方だ。時間とねじれという哲学的でもあり空間的でもあるテーマを設定しながら、動きを極端に限定し、それらを一本の線の上により合わせた、ストレートな作品だったといえるだろう。

 ところで、この15~17日は舞台監督が谷本誠さん(CQ)、16・17日は照明が牟田耕一郎さんと、普段と違った裏方陣でお送りした。小屋付のいつもと違うスタッフはまた新鮮で、本当にお世話になった。ある種のリップサービスかもしれないが、口々に、ダンスのしかも複数のアーティストによる公演は実に大変だったと言っておられて、ずいぶん疲れさせてしまったようだ。特に谷本さんには、急な依頼でリハーサルに立ち会っていただくこともできなかったのは、仕事の流れの上で申し訳なかった。お二人とも、実にいいチームワークを作ってくださる方で、初めて仕事をするというささくれを感じなかったのは、ありがたかった。諸々、ぼくもいい勉強をさせていただいた。
 また、出演者やその仲間が、ボランティアスタッフとして舞台まわりや撮影を手伝ってくださったのは、申し訳なさも含め、本当に助かった。今回はなかなか一般のボランティアを集めることができなかったが、スタッフの問題は次回以降も課題として残るだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?