『ダンスの時間』サマーフェスティバル2008(22)宮北裕美「J.M.リンドバーグ(1993-2063)」
宮北裕美の「J.M.リンドバーグ(1993-2063)」は、美術家かなもりゆうこの映像を大きくフィーチュアした「ミクスドメディア・パフォーマンス』(プログラムによる)である。2台のプロジェクタによって映写されるかなもりの映像と、宮北の身体の、どちらに大きな比重がかかっていたか、にわかには結論づけにくい。最初は少女の姿で椅子に腰掛けてゆっくりと、わずかに微笑みのような表情をたたえて腕を動かしていた宮北は、一個のオブジェとしての存在感があり、顔の表情にも今にも泣き出しそうな強い感情が表れているようだった。
宮北が去り、壁の左半分に、白いソファーに座った彼女が映写される。ロクソドンタブラックの奥壁の真ん中に柱型があることを利用して、スクリーンを左右に分けるように2台のプロジェクタを使った。2つの映像空間の間に立体の仕切りを置いたことで、二つの間にある種の段差ができたのが、面白かった。
では、スクリーンである壁に貼り付けられた二次元の存在と、床の上で現実に三次元として存在する身体の間には、どのような懸隔があるのか。現実の身体の宮北が不在の間の(着替えている間の)、映像の宮北が、現実の代替的存在であると考えるのでは、ここに流れる時間の連なりが弛緩したものとなってしまう。印象としては、映像が実体のようであろうとしたのではなく、実際の身体が映像のようであろうとしたようだった。宮北の身体は生々しさを極力排除し、できれば汗もかかず呼吸もしないぐらいの無温さを獲得したかったのだろう。だから、そのような身体が後半にゴロゴロと横転するなどの大きな動きを見せたときに、やや違和感があったのは、当然のことだったともいえるだろう。
後半、宮北は少年の出で立ちで、空間を支配し指図するようなしぐさを見せ、また白い衣裳に映像を写すスクリーンになるような設定を提示した。映像は空や雲となり、椅子の上に立ち上がった宮北は、リンドバーグという名から導かれるように、空を自在に行き来する少年のようだった。しかしそれは二次元の存在であることを志向しているようだった。
身体はほとんどの場合、上位の次元を志向する。身体は三次元に規定されていながら、できれば空間や時間を超えた何ものか手に触れえぬ次元…四次元であろうとするもののようだ。しかしこの宮北のように、三次元性を離れ、オブジェであろう、風景であろう、二次元であろうとするような身体は、おそらくは稀有であり、極端に言えば冒涜的でさえある。では、最終的に映像のみの作品に収斂していくのかといえば、おそらくそうではあるまい。その間に横たわる揺れやノイズのようなものをこそ、彼女とその協働者たちは大切にしているのだろうと思う。それがダンスであるかどうかということは、ダンスイコール身体を動かすという観点からはあまり興味がなく、その空間なり時間なりを、一つの中心に身体を置いて形成することに懸命だったといってよいだろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?