見出し画像

『ダンスの時間』サマーフェスティバル2008(25)山田レイ「ありのままで~我が青春の1ペイジ」

 山田レイもまた、2回目の出場。前回の昨年のSummer Festivalでは「芭蕉精」という謡曲に材を採って変化(へんげ)する、トランス系の作品だったが、今回は「ありのままで~我が青春の1ペイジ」と、私語り的なタイトル。冒頭、中途半端な感じの照明の中、山田が現れない状態で、どうして要領が悪いのかとか、やることやってから遊べとか、叱責の言葉が流れる。かなり神経を逆撫でされる始まりだ。
 現れた山田は、ぼろをまとっているのか、蓑虫のようにいろいろなものを身にひっつけてしまっているのか、そういう衣裳で、打ちひしがれたような風体である。『ノバ・ボサ・ノバ』の乞食のような衣裳。今回山田は、少なくとも中盤までは伸びやかで美しい動きを封印し、蓑のように余計なものを身にまといすぎて身動き取れなくなった者のように窮屈だった。それが、彼女が青春と指すものが、どのような状態や時期のことをいうのかは知らないが、それについてのセルフイメージであったわけだろう。この作品の少なくとも物語的な意味での眼目は、その蓑のような衣裳を脱ぎ去って、目にも鮮やかな深紅のドレスに生まれ変わったことではなく、生まれ変わって舞台奥へ歩み去るのをいったん止めて、脱ぎ捨てた衣裳をいとおしむように抱きしめて去るというところである。
 山田は、作品について観客に説明することにおいては非常に熱心で丁寧なダンサーだから、今回も冒頭の言葉の使い方、衣裳の扱いに当たっては、おそらくほとんどの観客がその意味や意図を十分に理解できただろう。特に説明的な動きをとるまでもなく、抑圧された青春の自我が解放され、しかし古い自我をも包み込むように成長し、次の一歩を踏み出していくという作品の趣旨は明白だった。作品を創る上で、このような単純化と明確化は、必要であり重要なことだと思う。何よりも、それによって迷うことなくはっきりと身体が見えてくる。この作品でも、大柄で伸びやかな身体を持った山田が、四肢を縮めて窮屈そうにゴロゴロしているのは、大きなインパクトがあったし、重いぼろを脱ぎ捨てた後の姿は凛々しく、生きることへの迷いを振り捨てたような潔さが見られた。
 このようなことは、単純なことではあるわけだが、単純にするためにそのことに向き合う作業は、少なからず苦痛を伴うものだったに違いない。それによって、多くの人の共感を得やすいテーマを、ダイレクトに提示できたことの意味は大きいと言えるだろう。
 山田自身はこの作品について、急ごしらえの簡単な作品で、次はもっとちゃんとした作品をと言っていたが、あるいは急ごしらえのよさがシンプルさとしてあらわれたのかもしれない。ただ、冒頭に言葉で語られた内容の抑圧的な事柄は、本当に言葉で語られる必要があったのかどうか。ぼろのようにごちゃごちゃした衣裳を脱ぎ捨てるというだけで、同質のことは伝わったと思っていいだろうし、うまくいけばもっと広がりを帯びて普遍化できるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?