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『ダンスの時間』サマーフェスティバル2008(13)由良部正美「燃えている手紙のようなからだの願い事」

 生命感というのは、ダンスにとって最も親しい感情かもしれない。身体が動くことは生命があることの証であるのだろうし、生命力の横溢とは、豊富な運動量であるようにも思われるだろう。
 リハーサルが終わってしばらくの間、ぼくたち(というのは照明の伏屋さんや音響の西平さん)は、由良部正美さんからいろいろなお話を聞いていた。作品の流れの解説から、ALS-Dの甲本さんの話へと話は尽きず、ぼくたちだけで聞いているのが本当にもったいないと思ったほどだ。一言でいえば、作品のピークはどこかということになる。かすかな光の中で横たわる姿から、徐々に蠢きはじめ、立ち上がり、螺旋を描くように天を仰いで降るものを全身で受けるように舞い踊り、何度か大声で叫び、腹の底からすべてを絞り出すかのように声を上げ、ゆっくりと収束していく。これまた単純な構成の直線的な作品だから、当然のようにピークは、激しく舞い踊り、絞り出すように叫ぶそのあたりにあると思う。
 ところがその時の由良部の話によると、本当のピークはそこから後にあるのだという。存分にすべてを世界から吸収しつくした最も豊かな実りの時期は、実はその後、そのようにして蓄積した実りを四囲に放出するためにある。その放出ということこそが最も大きなピークであると。
 「燃えている手紙のようなからだの願い事」と題されたこの作品について、上記のような生命観が説明なしに観客に直観されるためには、作品の構成にも身体の見せ方にも、さらに何かが必要なのかもしれない。しかし、その話を聞いた先入観で観ていたせいかもしれないが、大声を上げた後の由良部の収束に向かう動きには、虚脱ではなく、衰頽でももちろんなく、何とも言いようのない豊かな広がりがあったように思える。これは生命観、次のステージのことを考えれば死生観ということだ。一般に衰えると言われていることについて、あるいは死に向かうことについて、こういうような捉え方をするなら、いわゆる外見的なピークの迎え方も異なってくるだろう。

 「ダンスの時間」では、何度目かから、作品の合間にぼくがディスクジョッキーのような形でコメントをするというスタイルをとっている。時々ご批判を受ける。作品に先入観を持ちたくないとか、評価を押し付けないでほしいとか、うっとうしいとか。実はこの由良部から聞いた内容を作品の前に話そうかどうか迷って、夕方公演では、「生命観と作品について非常に興味深いお話を伺いました」と示唆するにとどめておいた。これでお客さんは、生命について考えさせてくれるような作品なのだな、と思って観ることができるはずだと思い、それ以上は言い過ぎだと思って、とどめた。ところが終演後、何人もの人から、どんな内容だったのかと聞かれ、少々突っ込みすぎるかなと思いつつも、それに負ける作品ではないしと思い、夜公演ではやや詳しく説明したら、わりと好評だった。もしぼくが一歩踏み込んで説明したことによって、お客さんがこの作品の終盤を瞬きせずいとおしむように観てくれたのだとしたら、きっとそれはよかったのだと思う。
 それにしても、いつもコメントは、このように、ひやひやと手探りしながらなんです。

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