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「ダンスを批評することについて」2010年6月22日の講義録

2010年6月に神戸大学の『臨床舞踊論』でお話しした時の原稿です。
これもご担当は関典子先生でした。ありがとうございました。

 ここで取り扱うダンス、あるいは舞踊は、大まかに言って、創造的で個性的であろうとする、広義の身体表現をさします。やや限定的には、そういう身体表現のうち、現代美術の範囲内で扱われることの多いハプニングやパフォーマンスを除き、ある程度の身体的な表現技術の錬磨を前提としたものを扱います。これはあくまで原則です。原則には必ず例外がありますし、往々にして、例外のほうが面白いのですが、極力原則にしたがって論を進めることで、議論のストライクゾーンを広げたいと思います。
 今日は、その「批評」についてお話ししていくのですが、「批評」は、criticism。佐々木健一編著『美学辞典』(1995、東京大学出版会)では、「具体的な芸術現象を主題とし、そこに見出される諸々の意味を論じ、もって作家と鑑賞者たちに指針と手がかりを与える活動」とあります。これについては、また後で振り返りたいと思いますが、だいたいこういう共通認識があるらしい、としておきましょう。
 ダンス、舞踊というものは、大昔からあるものですから、それについての批評的な言葉も、昔から存在しています。
 日本では、世阿弥(1363年?-1443年)の21種といわれる能楽論、風姿花伝や申楽談義などが有名ですが、能、能楽という舞台芸術論として、優れた実践論であり、作劇論であると同時に方法論、舞踊論でもあります。
 たとえば、『花鏡』(1421年ごろ)のなかに、
◆舞に、目前心後(もくぜんしんご)といふ事あり。「目を前に見て、心を後(うしろ)に置け」となり。見所(けんじょ)より見る所の風姿は、我が離見(りけん)なり。しかれば、我が眼の見る所は、我見(がけん)なり。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、すなはち見所同心(けんじょどうしん)の見なり。その時は、我が姿を見得するなり。我が姿を見得すれば、左右前後を見るなり。しかれども目前左右までをば見れども、後姿をばいまだ知らぬか。後姿を覚えねば、姿の俗(しょく)なる所をわきまへず。これすなはち、「心を後に置く」にてあらずや。かへすがへす、離見の見をよくよく見得して、…という主観を離れた客観的な見方(認識)、「離見の見」があります。また、
◆「動十分心、動七分身」(どうじゅうぶんしん、どうしちぶんしん)(p410)といって、「心を十分に動かして身を七分に動かせ」と述べた後、非常に具体的に、「習うに際して、手を前・上のほうに差し出したり、足を動かすということを、師の教えの通りに動かして、教わったとおりに十分に極めた後には、手を指し引くことを、心に思うほどには動かさずに、ほんの少し、内輪に控えておくように動かすのである。このことは、必ず舞や舞ではない所作動き全般について言えることだ。立ち居振る舞い、身のこなしについて、すべて、心に思うよりは身の動きを、惜しむように控えて動けば、身は体(花)となり、心は用(匂)となって、すばらしい感興を与えるだろう」としています。
◆「強身動宥足踏 強足踏宥身動」(ごうしんどうゆうそくとう、ごうそくとうゆうしんどう)といって、(つよくみをうごかせばゆるくあしをふみ、 つよくあしをふめばゆるくみをうごかす)、「足を強く踏む時、身を静かに動かせば、足音は高けれども、身の静かなるによりて、荒くは見えぬなり。これすなはち、見聞同心(けんもんどうしん)ならぬ所、両体和合になりて、面白き感あり。」(目に見るところと耳に聞くところが同じ感じではないやり方で、両者が調和して、面白い感動が生まれるわけだ。)
◆「舞は声を根と為す。舞は、音声より出でずは、感あるべからず。一声の匂ひより、舞へ移る堺にて、妙力あるべし」(舞は音声を根本とする。舞は音声に基づいて発現するのでなければ感動を生み出し得ない。一声の余韻から舞へと移るその境目で、すばらしい効果が発揮される))(p413)
などとあります。
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 これらは、技術論であると同時に、実践に基づいた戒めであり、批評であるといえるでしょう。
また世阿弥は、舞の五種の方法として、「舞に五智あり。手智、舞智、相曲智、手体智、舞体智」(p414)と挙げています。「智」は、ここでは、たくみ、方法という意味です。
 手智が両手を合わせた舞い初めの形から、序破急の展開に従うように手順どおりに演ずることができるということに始まり、舞体智(舞体風智)は、表現すべき言葉もないような至妙な舞姿であるというふうに、序列のように並べていきます。

 続いて、貞享3年ごろ(1686年)成立したとされる『舞曲扇林』(初代河原崎権之助)を紹介しましょう。ここでは、舞の六態として、虚・実・景・曲・平・転、が挙げられています。(p25)これは「詩経」の詩の六つの類型:性質・内容から分類した風・雅・頌(しよう)と、表現から分類した賦(ふ)・比・興(きょう)から援用されたもののようです。
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●「虚」は空(くう)である。発端であって、なんという作為がない。
●「実」は笑うべきを笑い、悲しむべきを悲しむという心の通りのもの。虚と実は別物ではあるが、離して考えられるものではない。
●「景」は気色をまうもので、朧月夜のようなもの。
●「曲」は風流で、「態」の第一である。女の姿で足を広く踏み出したり小袖の裾を開くように舞うのは、態を忘れたことである。
●「平」は、全身に力みがなく、安らかに舞うことである。
●「転」とは、安らかなところに突然気を転じ、心を改めて所作を為すことである。
 としています。
 この本は、歌舞伎舞踊の理論・心得を述べ、身体表現に関わる舞踊の理論を文章によって綴るため、難解であるとされています(日本古典文学大辞典、5-238)。最古の歌舞伎舞踊理論書とされていて、著者が同時代に見聞した役者の芸を例証しているのが、『舞曲扇林』の面白いところです。たとえば「六態の鏡」(p26)として、玉川千之丞、玉川主膳、上村吉弥を挙げ、「ある人は、千之丞は舞はへたくそだ。声がよくて変化を見せ、面体がうるわしいものだから評判を得ている」というが、それは誤りだ。彼は「虚」「曲」の二つを得ている。「虚」は、何と言うわざとらしさがなくかろやかなもので、「陽」である。体をゆるやかにして舞をする。「曲」は風流である。千之丞は、曲を作るに当たって、姿見の鏡を立てて自分を鏡に写し、人が見る様子心の写る様子を考えて、女性の姿をよく研究していたので、観客の心をときめかせた。これは、「虚」「曲」の二つを研究していたためである」
 そして、「主膳は「実」「景」の二つを得ている。上村吉弥は「平」「転」を自由にものにしていた。」と続きます。
 日本の能楽をはじめとした古典舞踊は、和歌を中心とした王朝文学と、密接な関係を持っています。そこから導き出される一つの特徴として、まず日本の舞踊は詩的表現であるということがいえるのではないでしょうか。
 京都芸術センターで、道成寺を素謡で見た(聴いた)ときのことですが、これはシリーズとしてアフタートークがあるもので、ま、関係者ということもあり、一つ質問をしてみたんです。お能には、アイ狂言というものが入って、全体の設定や筋、背景をわかりやすく口語体で解説してくれるような形式になっているのですが、それについて、なぜ本編自体をわかりやすくするのではなく、狂言のほうに任せたのかというようなことを聞きました。すると、シテ方の河村晴道さんが、能の詞章は、詩ですから、散文的ではありえない、室町時代の人にとってもけっしてわかりやすいものではなかった、というふうにおっしゃったんですね。
 つまり、幽玄とか、花とか言いますが、それらは詩的な、あるいは抽象的な美しさを言うのであって、本来的には具体的に衣裳がきれいだとか、役者の顔かたちが美しいということではない。そういうのじゃ「時分の花」といって、「まことの花」ではないとされる。

 実は、世阿弥の「花鏡」の中には、ずばり「比判之事」(p430)というくだりがあります。人の好みはまちまちで、万人の心に合うようなことはなかなかないことだが、まずは名人として天下に押し出された達人をもって、批判(批評)の模範としよう。まずは演能の現場において、できた(成功した)能と、そうではない能について、よくよく見て聞いて研究して、正しい批判のしかたを知るのがよい。それには、「見・聞・心」の三点がある。
●「見」(けん)より出てくる能、視角美によって成功する能とは、最初からすぐに会場が色めき立って、舞や謡も面白く、あらゆる観客が歓声を出して華やかに見えるもの。
●「聞」(もん)より出てくる能とは、主として聴覚に訴えて成功する能のことで、最初からしみじみとしていて、音曲にあわせてしっとりと落ち着いた感じの面白さがある。音曲の引き起こす感動というものは、最高級の上手のみが現出しうる感覚である。このように出てくる味わいというものは、「田舎目利き」はそれほどとは思わないものだ。
●「心」(しん)より出てくる能とは、無心、無文で成功する能のことで、無上の上手が、すべての曲を習得した後に筋の面白さなど特にないようなさびさびとしたもののうちに、なんとはなしに人の心を打つようなことがある。これを「冷たる曲」ともいう。──「文」(美)を内に蔵しながら表面は枯淡で洗練されきった芸曲。世阿弥は『九位』でも上花の芸境を雪で象徴し、上花の為手が却来して演じる強細風を「冷えたる曲風」と形容している。
 このように、下から上にと段階的に序列をつけて評価していく言葉と、境地のようなものを並列的に並べていって、その特性を個々の役者に当てはめていくことと、そのような批評の方法があることがわかります。
 分類と、評価とが、この二種類のマトリックスによって可能になるわけです。
 日本古来の身体芸術が、詩であるところの和歌と密接なかかわりを持っていたということから、その批評の方法も、和歌と相通ずるところがありましたし、その現場で用いられる言葉も、文学用語と非常に近いものを持っていたようです。舞の批評そのものが、和歌としてなされたりしたこともあるようです。
 それを現在の観点から高く評価しようとすれば、ある一つの作品世界を評価するに当たって、別のジャンルの作品の世界をもって比肩させようとした、ということになるかもしれませんが、おそらくは、当時の文化芸術を享受する閉じた共同体、サロンのような集団の中で、○○みたいだよね、と言えば通じる符牒のような、閉じた、しかしながら高度な批評言語、批評空間が成立していたのではないかと思います。
 このように、あらかじめ何段階かの基準や、評価の軸となる形容詞的な基準をもっていれば、見る者の中にある種の座標軸や採点表ができますから、評価ということは、やりやすくなると思います。
 さて、批評については、その成立条件として、再現または描写、解釈、そして評価、ということが言われます。感想文と異なるのは、評価というものが、個人的なものにとどまらず、客観性、大げさには歴史性、社会性に向かうところでしょう。歌合せという、AとBを比べて、どちらが優れているかということを明確にすることで、その時代の文学や芸術の行くべき道を指ししめす、というのが理想的なのですが、大概は既成の価値観を踏襲し固定化することになりますが……。藤原俊成であれば俊成の美意識を明確にすることになります。「和歌九品」などという、「上の上」から「下の下」などというランク付けも、同じことです。
 ただ、この「評価」ということを短絡的に捉えてしまうと、芸術を経済的価値に還元したり、社会的優位性に置き換えたり、人気投票になったりと、何らかの外在的な価値に代替してしまうことになりかねません。J-POPでなかなか批評が成立しないのは、CDの売上げやダウンロードのカウントという数値で評価が完結されてしまうからで、「売れていないが、よい」ということが、成立しにくいからでしょう。
 芸術を芸術的価値において評価するということは、なかなか難しいことのようです。それはとりもなおさず、芸術的価値というものを定めることの難しさに起因します。
 再現・描写について考えてみましょう。今日見てきたのは、14世紀から19世紀の評論でした。19世紀末にはやっと写真が出てきますが、録音、録画という技術が存在しなかった当時、記録の方法としては、言葉と絵画しかなかったわけです。これが録音や録画と決定的に異なるのは、受動的ではなく、能動的であるということです。ビデオカメラやレコーダーは、セットしてスイッチさえ入れれば、勝手に記録しておいてくれます。ズームインや指向性、編集ということはありますが、最低限のレベルのことを考えてください。ところが、文字や絵による記録は、記録者(あえてこう呼んでおきますが)が積極的に、行為しないといけません。そして重要なことですが、すべてを均一に記録することは不可能ですから、この段階で既に取捨選択、クローズアップやカットオフが発生しています。印象に残っていないことは記録されないのです。
 よく、読書感想文で、あらすじを書いて、最後に「面白かった」、おしまい、というのがありますが、確かにあらすじをきちんと書くというのは難しいことですので、小説や普通の演劇であれば、ある程度は必要で有効です。しかし、それは美術や音楽、詩、ダンスにはほとんど当てはまりません。
 では、それらの芸術作品を再現、描写するとは、どういうことか、というのが問題になります。少なくともこれまでは、批評という行為は言語でなされてきました。たとえばこれから、ネット上で、再現や描写は画像や動画でやって、ということは可能になっています。しかし、やや保守的かもしれませんが、批評の完成度、独立性ということから言って、「動画の3分20秒目の右手の動きがすごい」では、ちょっといかがなものかと思うのです。

 よく芸術享受の尺度としても、感動という言葉が使われるのですが、スポーツでもそうですが、これにはちょっと抵抗があります。つまり、感動さえすればよいというわけではないだろう、ということです。
 現代美術家のジャスパー・ジョーンズでしたか、「見ることは、考えることだ」といっていましたが、こと現代芸術においては、思考停止に陥るような感動は、むしろ煽情的であったり、ステレオタイプであったりするのではないかと、否定的に見られるべきものです。
 つまり、感動やインパクトといわれるようなものの強度だけではなく、思考や内面的に包含している世界の深さなど、深度というものも考えていかなければならないと思っています。
 解釈という作業が残っていますが、これは芸術作品に対してよく向けられる言葉「わからない」ということを置いてみると、よくわかると思います。ある動きが、どういう意味をもっているのか。または、その作品において、動きに意味があるのかどうか、そういうことです。作品によって、物語を解読することだったり、表面的な物語に秘められた裏の意味を汲み取ったりということもあれば、作品の構成を分析したり、動きのフォーメーションをたどることで作品のユニークさを汲み取ることもあるでしょう。
 つまり、その作品のよって立つところがどのような思想、流儀であるかということがわからなければ、「わかる」ことを求めている作品かどうかもわからないということになります。「具体的な芸術現象を主題とし、そこに見出される諸々の意味を論じ、もって作家と鑑賞者たちに指針と手がかりを与える活動」という、『美学辞典』の定義を最初に引用しましたが、この段階に、最もふさわしい定義だと思われます。
 さて、ダンスを批評する際に、最もアプローチしやすいものとして、技術批評が挙げられます。これは主にバレエにおいて中心をなすもので、オリンピックの新体操や体操、フィギュアスケートの技術点と同列に考えていいと思います。既定のテクニックをどれだけ正確にできるか、あるいはそれ以上にできるかということが評価のポイントとなります。
 技術批評が成立するためには、そのジャンルが理想、最高とする技術的な到達が、すべての成員によって合意されているということが必要です。
 この世界では、ジャンプや回転の正確さと高度さが求められます。長く厳しい修練によって獲得された完璧な身体のコントロールによって、初めて実現するものです。
 ローザンヌでクロード・ベッシーさん(パリ・オペラ座バレエ学校校長に1973年に就任、2004年3月に引退した)がテレビ中継などでよく語っていたことなどは、技術批評と共に、心構えや品といったことだったのではないかと思います。
 現代芸術の問題は、どのようなダンスが、そのジャンルの最高峰であるのか、その規範が明確でないことです。富士山型ではなく、日本アルプスのような連山型だったり、あるいは気がついたら山ではなかったりさえする。
 つまり、現代芸術においては、それがどのような規範をもっているのか、あるいはもっていることを否定しているのかということを含めて、その価値や洗練度を測る尺度が自明でない、明確でないということがあるのです。
 また、コンテンポラリーダンスには、残念なことに、観客が少なく、公演日数が少なく、再演される機会が少ないという、はなはだ現実的な問題があります。ということは、上演→批評→確認というサイクルが出来上がりません。このことは、ダンスの批評が成熟、成立しない大きな原因の一つだと思います。
 さらに、コンテンポラリーダンスが、経済的に成立していないことは、批評の地位にとって、どのような影響があるでしょうか。先ほど、J-POPについて、マーケットとして成立していて、売れるかどうかがほとんどすべてであるから、批評が機能しないといいました。その流れから言うと、コンテンポラリーダンスでは、マーケットがほぼ成立していないので、批評行為によって、純粋に芸術的に評価されることが大きな意味を持つはずです。
 しかし残念ながら、ぼくたちは、そのことによって、逆の意味で、深い疲労感を持ちがちです。いくらいい作品をやって、いい批評をしても、経済的、社会的には全く評価されないということです。生々しい話になりますが、ぼくは京都新聞で「ダンス評」の枠をもってはいますが、ここ3年ほど、何も書いていません。ダンス人口、特にコンテンポラリーダンスの人口の少なさを新聞社の担当がよく知っているために、書かせてくれないのです。
 なぜ、コンテンポラリーダンスの観客が少ないかを、ここで分析する余裕はありませんが、ここまで述べてきたような、現代芸術、コンテンポラリーダンスの批評の困難さということと、関係がないわけではないと思います。その享受における解釈や意味づけや再現、再話の困難さ、その上に、技術的な高度さや一般的な意味での美しさを拒否したような傾向があることから、見ることの快楽を留保したようなところがありますから。
 しかし、だからこそ見えてくる真実というものがあると、ぼくは思っているのです。
 最後に、プリントの、「評価」の下に、あえて( )を置いていますが、ここにぼくは「世界の共有」というような言葉を置こうと思っているのです。それがどんな世界であろうとも、醜い残酷な苛烈なものであろうとも、作者はそこに一つの世界、小宇宙を構築しようとしているはずです。現代芸術とは、そういうものです。それを、受け止め、解釈して、何とかその世界を消化し飲み込もうとするのです。そして大切なことですが、批評は、その世界を飲み込んだ後で、それに対抗するような世界を提示するのです。それが実作者と批評家が対等でありうる、おそらく唯一の道だと思います。
世阿弥の項:
http://kuzukiria.blog114.fc2.com/blog-entry-23.html

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