還暦おやじのスタディアブロードWith ウクレレ ③
貧しかったが幸せだった
私は映画の題名を「ギターを抱いた渡り鳥」とずっと思っていた。しかし、母の記憶では、違うというので、妻に促されてググってみると「ギターを持った渡り鳥」が正解。
そして、多くの人が間違っていると書いてあり、その説明は、水前寺清子の歌「涙を抱いた渡り鳥」がヒットしたからだそうだ。
なるほどそれなら合点がいく。こんなことで一緒に大笑いできる家族も有りがたい。
そんな日常とも一か月間はお別れだ。そんなことを考えて歩いていると、北帰行の♪窓は夜露にぬれて都すでに遠のく♪のメロディと歌詞とともに父親に肩車をしてもらった記憶がよみがえってきた。
あの頃のおやじはたばこをくゆらせながらギターを弾いていた。楽譜は読めないようだったがラジオから流れてくる歌謡曲を聴くとすぐに弾いて見せてくれた。今でいうところの耳コピが出来たのだろう。十八番は“湯之町エレジー”だった。
父は営林署で働き召集令状一つで満州に従軍し、戦後に父が博多港まで引き上げてから母の実家の商店で鶏肉部門を手伝い、母の兄の勧めもあって二人は結婚した。
その後、一念発起して起業したが、事業に失敗してふるさとを追われて福岡県の豊洲炭鉱で坑夫として家族の為に危険を承知で真っ黒くなって働いた。しかし昭和36年の豪雨による水没事故で炭鉱は閉山となった。
炭坑で働いていた時の貧しい暮らしの中でのおやじの楽しみは映画を観るくらいの事だったのだろう。ふるさとを追われた自分と映画の中の主人公がかぶっていたのかもしれない。
ふとあの頃のおやじはどんな思いで毎日を暮らしていたのかと思うと胸が締め付けられた。
最晩年が一番幸せだった
おやじは転職をしながら何度か引っ越しをして、最終的には埼玉県さいたま市で74年間の人生の幕を閉じた。
私は結婚後も両親と同居をして二男が生まれてから二世帯住宅に建て替えた。父は私が建てた二世帯住宅も気に入ってくれていたようで母の話だと碁敵を家に連れて来ては、少しだけ私の自慢話をしていたようだった。
最晩年は温泉付きの高齢者施設にTOYOTAのランドクルーザーを運転して毎日通って碁を打っていて、仲間たちと合宿と称して温泉旅行も楽しんでいた。
母は事あるごとにお父さんは最晩年が一番幸せだったよ。ありがとうと私に言ってくれる。
私は、父の旅立ちを病院で家族と一緒に「今までありがとう。お母さんも大事にするから」ってつぶやいて見送った。
母も苦労した人だった。五男三女の末っ子として生まれたが母親が湯治の為に長期に家を空けていたので、幼いころに母親に会いたくて何度も宮崎県のえびの市の飯野駅から汽車に乗って肥薩線嘉例川駅まで行って、そこから母親が湯治をしていた鹿児島県の塩浸温泉までお土産を抱えて暗い山道を一人で歩いて行っていたそうだ。
そんな祖母の話をしてくれたのは、3年ほど前に妻と母と私で鹿児島に旅行に行った時に塩浸温泉に立ち寄った時が初めてだったが、その話を聴いた時はとなりのトトロの映画でメイちゃんが母親に会いたくて大根を抱えて七国山病院に向かって歩いてゆく場面が頭に浮かんで胸が締め付けられる思いだった。
その温泉は鹿児島県霧島市にあり坂本龍馬が新婚旅行で訪れた際に逗留したという温泉で、園内には龍馬資料館があり坂本龍馬・お龍新婚湯治碑が立っていた。
立ち寄り湯となっていて入浴料大人380円子供150円と記載があったが、入浴はしなかった。
母は父と結婚後も日々の生活に追われてフルタイムで働きながら子育てをしていて、これといった趣味を見つけることもなかった。
習字という趣味を始めたのも80歳を過ぎてデイサービスに通うようになってからだった。
そのように考えてみると母は孫が5人でひ孫が9人いて、皆から大事にされている今が一番幸せな時間だと感じているのかもしれない。
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