ルーマン『リスクの社会学』1章 メモ。


 リスクの定量的計算の結果が受容されるのは、それが個人にとってのカタストロフィの閾を超えていない場合においてである (:19)。〘*不思議、というか展開に違和感。〙 このように今日では「閾」、また「リスクの選択」という問題が扱われる (:20)。しかしこれらは出発点において未だ個人主義的 (心理学の痕跡を残したもの) である。そして今日では社会学もリスク概念を扱おうとしているが、それらはオートロジカルな帰結を考慮していない (:21)。

 ともあれまずは、(リスクについて語るとき、我々は) 何について語っているのかを明らかにしておく必要があるだろう。

 概念史を紐解くと、リスクとはまず「決定」に関わるものであり、また「時間」の流れを考慮するものであったことがわかる〘*事前にはこうだが、事後にはこうだった〙(:26)。未来を知り得ないが、時間を拘束している決定こそが重要だ、という事態を指し示すものだったのである。この概念はやがて確率計算と交流し合理主義的伝統をつくりあげる。〘*結局歴史を紐解いてもあまり明確なイメージは出てこない。それどころか、合理主義的な伝統がわりと現在まで地続きであるということが大体わかった。だから、〙 次に行うべきなのは、その合理主義的伝統が問題をどのように観察しているかを観察することであろう (:30)。そのためには入念な概念形成が必要である。

 〘*p.32-34は、リスクという概念の使用の前提条件について。二次観察は〈決定を下す / くださない〉〈リスクの肯定・受容 / 否定・拒絶〉という区別は用いないといった話も含む?〙。

 リスクという概念は、どのような区別を前提として作動しているのか。合理主義は〈計算方法として最適か / 最適でないか〉という形式を提供してくれるだけである (:35)。また、合理主義的伝統が今日のような形に育て上げた (つまり計算の問題に関わるものである)「安全」概念は空虚なものである。〘*そして「安全」概念は結局リスク概念と同じ土俵の上にあるし、〈安全〉を選ぶこと (リスクを選択しないこと) もまたリスクなので区別としても成り立っていない〙〘*また、「リスクを除けば安全へと移行する」など考えられない (:44)〙。したがって、〈リスク / 安全〉の区別は二次観察の区別としては不適当である (:37)。

 本書は、〈リスク / 危険〉の区別に注目する。この区別は、未来の損害の不確かさを土台とし、そのうえでそれが「決定」からもたらされたと観察するか、「外部」からもたらされたと観察するかを区別している (:38)。また、この区別には選択肢のそれぞれが損害の可能性の点で区別されているという条件がある〘*私はA社とB社の飛行機会社の内、A社を選択した。そして、A社の飛行機は墜落した。私は飛行機会社を選ぶ際には、どちらかの飛行機会社を選ぶことで私に与えられるかもしれない損害の差を知りようがなかった。損害の可能性の点からA社とB社を区別することができなかったのだ。だから、この決定を「リスクのある決定だった」という人はいない。せいぜい「不運だ」というくらいだろう〙(:39-40)。

 〈リスク / 危険〉の区別においては、リスクをマークすると危険が忘れられ、危険をマークするとリスキーな決定がもたらすかもしれない利益が忘れられる。ここから、たとえば「決定者と非影響者が、一つの同じ区別の異なった側面をそれぞれマークしそのことによってコンフリクトに陥っている」というように今日の状況を特徴づけられるかもしれない (:40-41)。〘*ある決定を「危険だ!」と非難する被影響者に対して、決定者がその決定によって得られるかもしれない利益をいくら説明しても、意味はない。〙

 この区別を採用することにはさらに重要な利点もある。「帰属」の概念を使用できるのだ (:41)。ほかの観察者が〘誰が〙どのように帰属しているかを観察できるのである。


 最後に、〈リスク / 危険〉に対する予防に触れておく。予防することは、リスクを取ろうとする構えに影響を与えてしまう。〘*危険の場合、いくら予防していたからといって損害の発生に影響はない。災害時のために食糧を用意したからといって、それが地震を引き起こしてしまうことなどありえない。しかし、リスクの場合は違う〙。たとえば「地震に対してある程度安全な建築方法がある場合には、地震の危険性のある場所であっても建物を建てようと決心するようになるだろう」〘*家を建てるという決定が、地震による損害の発生に影響を与えているので、この例はリスクに関わるものである〙。

 そして、予防を決定する / しないこともまたリスクである。とくに政治はこれに関わる (:47-48)。


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