「永遠」と「成長」を描くことについて。


*『はるまで、くるる。』の微ネタバレ注意かな*


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(1) 多くの「永遠」を描く形式の作品において、舞台は捨てられるためだけに用意されている。言い換えれば、「永遠」(≒ループ) は「成長」の物語によって容易に否定される。

(2) しかし、その「成長」は (その舞台設定が捨てられるためだけに用意されていたという点から)「必然付けられた成長」というニュアンスを帯びる。したがって、「成長」もまた容易に否定的価値を帯びる。

(3) その結果、「永遠」と「成長」は、それぞれが肯定的価値と否定的価値を持つ。「永遠」と「成長」が宙ぶらりんになる。『Forest』のエンディングがどこか陳腐なのも、『さよならを教えて』の物語が結局夕焼けの病院を抜け出せないのも、このせいである。

(*) この文脈から『はるまで、くるる』といった作品を評価することもできる。この作品のおもしろいところは、ループの超越者=観察者のように描写されていた存在が、実はループする空間の内にいる存在であったというところだ。この世界には超越者は存在せず、あるのは「システム」だけであった。成長も、意図も、更には世界を観察することも、世界には何も影響を与えない。登場人物たちは、ただ待つことしかできないのである。


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