「救われるためにお金を払う」とはどういうことか。 ー 宗教と支払いのコミュニケーションについて


 半年くらい前だっただろうか。知人から、鬱になり、それを治すために私財を投げ打ってお金を作り、遠方の新興宗教の集会に参加している人がいるという話を聞いた。

 それなりに重要な私財を売ってまでお金を作ること、鬱を治すためにそのお金を宗教に使うこと。このことを意識しながら、「救われるためにお金を払うことは奇妙か?」ということについて手短に考えていきたい。

 ただし、先に言っておくと、この記事はなんらかの結論を提示するものではない。「支払う」ことと、コミュニケーションの関係についてのざっくばらんな考察でしかなく、話はあちこちに跳ぶと思う。アイディア集のようなものとして受け取ってもらえるとありがたい。


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 まず強調しておきたいのは、「救われるために支払う」という行為は、ある種の理想の状態でもありえるのではないか、ということだ。

 買う側は、おそらく「救済」を求めている。そして、その救済を得るための手段として、「支払う」ことに対して納得している。

 売る側も、騙そうとしているわけではないのかもしれない。お守りとかを売る場合、(売る人自身が効果を信じているかどうかはともかく、) 少なくとも「これを買うことで相手が安心できるならそれで良い」くらいのことは考えているのではないだろうか。すると、相手が求めているから、相手のために売りたい。こういう話になる。

 納得してお金を払いたい。相手のために売りたい。この関係が一致しているのだから、ここにはある種売り手と買い手の理想状態があるといえるだろう。「(仮に外から誰かが見た時に騙されているようにしか見えないとしても) 納得して払っているのだからそれで良い」「(仮にこのお守りになんの効果がないとしても) これを買うことで相手が安心するのであれば、それで良い」。このような状態にあるとき、外からその場面を見るであろう我々は、口を出すことを躊躇ってしまうことになる。最悪の場合、外から見れば明らかに「騙されている」のだが、本人は「騙されているのはわかっている」と言いながらもお金を支払ってしまうようなこともあるかもしれない。


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 では、こうした場面において「支払う」ことはどのような機能を持つのだろうか。これについては、「支払うことは、それによってコミュニケーションを統制し、コミュニケーションの蓋然性を高める機能を有するのではないか」という仮説を立てておきたい。

 お金を支払うことは、コミュニケーションの蓋然性 (成り立ちやすさ) を高める。例えば、私がいま重大な心配事について誰かに相談したいと思っていたとしよう。私の周囲に親密な関係の人がいれば相談できるかもしれない。もしかすると、その心配事に関して有益なアドバイスができる人が身近にいる可能性もある。しかし、私に親密な相手がいなかったり、周囲に対して私が「どうせまともに取り扱ってもらえるはずはない」と失望してしまっていたら? 私は誰とどのようにして、そうした出来事についてコミュニケーションをとることができるのだろう。道行く人が相談に乗ってくれる可能性はないだろう。

 そして、こういうときにこそ「支払う」ということが意味を持つ。「宗教に支払う」「医療 (カウンセリング) に支払う」といったように。そうすれば、少なくとも私は、「無視されることなく話を聞いてもらえる」という期待を抱くことができる。支払ったのだから。(そもそも金銭をもらえる見込みがないにも関わらず、相手が相談を聞いてくれて、それへの救済を示してくれるということを、我々はいかにして期待できるのだろうか。)


(*ただし、宗教の場合は、「まず話だけでも聞いてもらう」というところから始まる場合のほうが多いかもしれない。その点で医療とはやや異なるし、人によってはそちらのほうが参加障壁が低いと感じる可能性もある。)


 最低限の対応をしてもらえる、という期待とお金を支払うことはどこかで結びついている。

 これはおそらく、「神とコミュニケーションを採る」という場面を想定してみても、ある程度まで妥当する。神と有意義にコミュニケートするためには、「信心」があればよいのかもしれない。しかし、「信心」があることを人はどのように証明しうるのだろうか。布教か、あるいは神とコミュニケートするためのセットを用意するといった手がある。そのためには、「本」や「祭壇(仏壇など)」を購入する必要があるだろう。そのように「支払うこと」(自分のお金を払う≒自身の身を神のために削ること) を通じて、人は神とのコミュニケーションの蓋然性を高めうるのだ (少なくとも、高まったと感じることができるのである)。


(*ところで、カウンセリングは支払いから始まるコミュニケーションでありながら、支払いに統制されないようなコミュニケーションへと患者を送り出すような傾向を持つ。患者はいつまでもコミュニケーションが拒絶されない空間にいることはできない。最後には支払いを介さない他者とやりとりする空間に出ていかなければならないし、それを目標にして治療が進められる。こうしたものと宗教はどのような点で異なるのであろうか。

 もちろん、宗教においても支払いを介さない他者とのやり取りは多く求められるであろう。だが、宗教には「神とのコミュニケーション」という可能性が残されている。これが大きな違いのように思えるのだが、うまく言葉にできない。)


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 支払うことは、コミュニケーションの非蓋然性 (成り立ちがたさ) を前にして、コミュニケーションを統制するための、有益な手段なのではないだろうか。

 私は、「救済される」という未来を確信することはできない。しかし、支払うことによって、「コミュニケーションが成立する」という期待を持つことはできる。少なくとも、コミュニケーションを即座に拒絶されるようなことはないだろう。

(*ちなみに、過去にも書いたが、「家族による介護」と「外部による介護」の場合。「外部による介護」は支払うことでコミュニケーションを成立させると同時に、支払わないことでそのコミュニケーションをやめることもできるという可能性を (一応は) 有している。家族にはそうした可能性が残されていない。我々は「支払われるから家族でいる」わけではなく、「支払われないから家族をやめる」わけでもない。「介護料が支払われないと母を介護しない」と言うことはどこか難しく、「身内を世話することに対して支払いを要求すること」にはどこかでためらってしまったりする。そういう観点から、家族という関係の難しさを考えることができる。家族とは、[支払いといった行為を経ないものであるにもかかわらず / そうであるがゆえに]過剰にコミュニケーションの蓋然性が高い関係であると想定され、過剰にコミュニケーションが成立することへの期待が抱かれてしまうような場であるのだろう。そして、「支払わない」ことによってその関係から逃げ出すことができるようなものでもないからこそ、ときに苦しさを生む。)

(*健康食品の集会についてもこうした視点から考えられるかもしれない。あれは案外、信じているのは一部の人だけで、あとは支払いによってコミュニケーションを買っている人たちなのではないだろうか。)


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 あるいは、宗教的コミュニケーションに問題があるのではなく、組織に問題があると考えることもできるかもしれない。例えば、一度入り込むと、抜け出せないといった問題はありえる。組織から排除されることが怖くて、お金を払い続けることになってしまう。そういう場面も確かにあり、それは問題だ。

 しかし、次のように考えることもできる。現代社会において、自分と似た考えを持ち、似たものに価値を見出し、それを共有することができる人に多く出会えることは、幸福だ。奇跡と言っても過言ではない。だから、支払ってでも、そこにいたいし、そこにいることが安全だ。そう思う人も、当然いると思う。

 ただ、それでもやはりここには問題がある。

 支払いによってコミュニケーションの蓋然性が高まるような関係は、どこかで支払う者を破壊してしまうことになるだろう。冒頭の話に戻ろう。「鬱を治すために私財を投げ売って遠方の集会に参加する」。こんなことをしていたら、いずれは支払い者の支払い能力も失われてしまうことになる。

 では、支払えなくなったときに、どうなるのであろうか。

 現代の新興宗教が、互助のシステムや救貧のシステムをどの程度発達させてきたのかはよくわからない。ただ、支払うということに依拠すること、依拠せざるをえないことが、「支払えない者を排除する」という帰結へと至ることがありえる。そうでなくても、「生活が成り立たなくなるようなレベルで支払いを求めてしまう (救われるために、そのような段階に至ってもなお、支払ってしまう)」という、宗教団体にとっても信者にとっても自己破壊的な過程を生み出す可能性はある。

 そうした可能性を持つという点で、この関係はやはりどこかで「不健全」だということができる。この点に、カウンセリングと宗教の違いを見出すこともできるかもしれない。 



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