A.コルバン『人喰いの村』(2016年に読んだ、人にオススメしたい本 ①)


 まだ11月になったばかりだし明らかに気が早いけど、今年読んだ本の中でおもしろかったものを紹介するシリーズ! ただし、読み直しながら書いているわけではないので、けっこう間違っているところがあるかもしれない。第一弾は歴史編。


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◯ 歴史編:A.コルバン『人喰いの村』(1990=1997)

 1870年8月16日。オートフェイ。ドルドーニュ県ノントロン郡にあるこの村でひとりの青年貴族が捕らえられ、二時間にわたって拷問を受けたあげく、村の広場で、300人とも800人ともいわれる群衆の目の前で生きながらにして (?) 火あぶりにされた。「共和国万歳!」と叫んだというのがその罪状であった。日が暮れると、いまだ興奮さめやらぬ群衆は散り散りに広場をあとにしていったが、口々に「プロシア人」を「丸焼きにしてやったぞ」と誇らしげに語り、中には教区の司祭を同じ目にあわせてやれなかったことを残念がる者もいた。(:9)



 『においの歴史』などで有名なコルバンの、彼にしてはとても短い本 (全260ページほど)。フランス第二帝政期末期に起きた虐殺事件をめぐる。

 とはいっても、この本は残虐な事件をただ単純に描き出すのではない。第一に、この残虐な事件はどのような象徴の体系に位置づいていたのか。第二に、そもそもこの事件が “残虐な事件” として観察されたのはなぜか。これらを明らかにするのである。

 まず第一の点から確認しておこう。そもそも、この事件にはいくつかの不可解な点がある。なぜ農民は「共和国万歳」と叫んだ (?) だけの貴族を虐殺したのだろうか。また、なぜ農民は (実際には地元の貴族を殺していただけだったにもかかわらず) 自分たちが「プロシア人」を殺したと思い込んだのだろうか、などなど…。これらの不可解な行為を理解するためには、「共和国万歳」と叫んだ「プロシア人」を「丸焼きに」することが、農民たちにとってどのような意味を持っていたのかを明らかにする必要があるだろう。こうしてコルバンはまず、農民たちの世界への接近を図るのである。

 実際に第一章では「農民が貴族に対してどのような不安・憎悪をもっていたのか」。そして、「その不安・憎悪はどのようにナポレオン三世への支持につながっていたのか」、「どのように (貴族への憎悪が) 共和派への憎悪につながっていたのか」などが明らかにされている。そのうえで第二章では「「プロシア人」を農民がどのように理解していたか」が、そして農民がどのような感情を「プロシア人」に対して抱いていたかが明らかにされる。

(*余談にはなるが、重要なのは分析の内容以上に、コルバンが農民たちの世界への接近を図るために利用する、その方法であろう。彼は公的な資料に重点を置くのではなく、「噂」を資料に農民の世界を再構成していくのである。こうした手法、そしてコルバンの手さばきの良さは今日でも注目に値する。)

 話を戻そう。ここまでで、農民のなかでなぜ〈「貴族」=「共和制支持」=「プロシア人」〉という不思議な理解枠組みが形成・共有されていたのか、そしてなぜ農民はそれらの対象に強い憎悪の念を抱いていたのかが明らかにされた。この舞台設定をふまえて、いよいよ第三章では虐殺の場面そのものが描かれることになる。この章で描かれる惨劇はかなり衝撃的なものである。冒頭から、実は殺された青年貴族はそもそも「共和国万歳」と叫んだという疑いをかけられていた人物とは別人 (従兄弟) であったこと、その青年貴族はほんの3キロ先に住んでいた顔見知りの人物であったにもかかわらず「プロシア人」として捕らえられ街中を引き摺り回され殺されたことなど、新たな事実が提示される。ここまで隠されていた情報がこの章で明示されることで、この虐殺の不可解さが際立たされていくのである。コルバンの優れた手腕により、さながら推理小説のような形で次々と虐殺のシーンがあぶり出されていくこの章は、間違いなく本書の要であり、一読に値する。

 ただ、これ以上ネタバレ (?) をしてしまうと良くないので、三章の内容にはあまり踏み込まないことにしよう。とりあえず、ここまでで第一の点「この残虐な事件はどんな象徴の体系に位置づいていたのか」が明らかにされた。ここまでの内容だけでも読み応えは十分あるのだが、コルバンの叙述はここで終わらない。残る第四章では、第二の点「そもそもこの事件が “残虐な事件” として観察されたのはなぜか」が追究されていく。つまり、事件がどのような解釈枠組みの内で成立したのかという話から、その事件がどのように解釈されたのかというところへと話が移っていくのである。

 そもそもこの程度の虐殺事件、「14世紀から1795年までのあいだに起こっていたとしたら (…) 無意味なものになっていただろう」(:159)。それにもかかわらず、この事件が大きく注目されることになったのはなぜか。それは、フーコーが『監視と処罰』の冒頭で描いたような、拷問の象徴体系の失効と関係していた。「1792年という年は、(…) 虐殺の歓喜とその光景に耐えられない新しい感性の表現とが共存していた、魅惑的な年」であり (:165)、虐殺の舞台となったオートフェイはこの時代の「残丘 (モナドノック)」であったのだ (:158)。この共存の例として、おもしろい話が挙げられている。

 すでに1789年7月22日、ひとりの竜騎兵が市庁舎に「血まみれの肉片」をもってきて「ベルチエ〔パリ地方長官〕の肉片です!」と告げたとき、その場に居合わせたある人物は、「私たちは目をそらし、彼を下がらせた」と書いている。(:166)

 誇らしげに肉片をもってきたのであろう竜騎兵の気持ちを考えるとなんともしょんぼりしてしまうエピソードではあるが、ともかくこのように、この時代は一つの分水嶺であり、二つの感性が混ざり合う地点であったのだ。

 そして地味ながらおもしろいのは、この事件の裁判をめぐる一つのかけひきである。詳しく書くのはさけるが、この事件はそもそも「政治的なもの」としても、「集団心理」にのせられた群衆の乱痴気騒ぎとしても、解釈可能なものであった。そして、前者として解釈した場合は、農民を処刑することが「政治的な性格」を持ってしまう (共和派が帝政支持者を処刑した、ということになってしまう)。しかし、共和派としては後者の解釈は取りにくい。彼らはこの虐殺事件を、「帝政によって植え付けられた粗暴さ」(:196) に起因するものだと解釈することで、帝政を批判する道具として利用したかったのである。そうした事件の位置づけの不可解さのなかで、「恩赦」か「処刑」かの論争が巻き起こることとなる。

 さて、結末はやっぱりネタバレしないほうがよいので、ここらへんで本の内容の紹介を終わりにしたい。ただ、最後に一つだけ触れておきたいのが、この虐殺事件のわずか一ヶ月後には第二帝政が崩壊し、第三共和政へと移行したということである。帝政を守ろうとした農民たちの行為の意味はその移行のなかでかき消され、また裁判における葛藤も消滅し、この事件はただの少し不可解な事件としてその後の歴史に名を残すこととなってしまった。

「おれたちはフランスを救うためにあの男を殺したんだ。今度はわれらの皇帝閣下がおれたちを救ってくださるはずだ!」と叫んだマジエール被告にたいして、「次席検事は皮肉な身振りで腰を下ろすと、ではこれからあなたの皇帝閣下とやらを探しにお行きなさい、と言った (傍聴席で笑い)」。(:201)


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 不可解とされている事件に「それなりの一貫性と論理がある」とするコルバンの記述は、アクロバティックではあるがときに強引に感じる部分もある。ただ、そういう強引さを差し引いてもなお刺激的な本であったと思う。コルバンの歴史記述の方法やその巧みさが圧縮されているので、読んで損はない。とくにコルバンの本は持っているだけで筋トレになるような厚さのものばかりなので、まずはこの『人喰いの村』から入ってみるのはありだろう。

 しかし、私はこの本を読みながら、そうした歴史についてのことについてよりも、たとえば嫌韓ブログで見られるような「あらゆる事件をすべて通名を使った在日朝鮮人のせいにする」といった解釈とそこで吐かれる言葉のグロテスクさについて度々考えさせられた (とくに第三章を読んでいると、[本来そういう読み方をするべき本ではないと頭の片隅では理解しながらも]私はどうしても今日の社会の不可解さを農村での虐殺事件に重ね合わせて読んでしまう)。ああいったものを分析・記述するときに、一般に不可解だと思われるような解釈をしている場面 (そういう解釈がなぜか広く共有されてしまっている場面) を取り上げて、その解釈がどのように成立していたのかを明らかにし、その世界を再構成する。そういった記述の方法があるだろうし (おそらくすでに誰かがやっていたりするのだろうが)、そういうものを描くときに、コルバンの話の構成は参考になるのではないだろうか。



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