ルーマン『社会の社会』 第一章「全体社会という社会システム」(Ⅰ~Ⅲ) メモ。


 このところメモを取りながら読んでて途中で力つきることが多いのだけど、まぁこういうのはどこかに残しておくと後々意外と役にたったりするので、残しておく。


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序論

「一つの原理もしくは一つの根本規範 -旧来のように正義や連帯であれ、さらには理性による合理であれ- から全体社会を演繹する見込みなど、もはや存在しえない。なぜなら、そういった原理を認めない、あるいはそれら原理に反する者もまた全体社会の作動にまちがいなく貢献するからだ。」(:ⅵ)


 システムの比較が80年代以降重要視されてきた。パーソンズは行為概念の分析によってこれに接近しようとしたが結局説得性を持っていない。ということで、まずは個々の機能システムに関する理論を彫琢してみた ⇨ 「社会の◯◯」シリーズ (ⅶ)。

 本書が扱うのは、こうした諸機能システムとは異なる、そして諸社会システムの前提となる、全体社会のシステムである。これはコミュニケーションという作動によって生成され再生産されるものであるが、同時にコミュニケーションの前提になるものでもある。そして、このように全体社会を「コミュニケーションによる自己産出」というテーゼで表す以上、この理論においてはシステムと環境の差異が前提とされている。また、諸システムは全体社会の内部で生じるのだから、当然諸システムの形成もまたコミュニケーションに依存する (ⅷ-ⅸ)。さらに、このコミュニケーションの概念には、再帰的な自己関係という仮定 (自身がコミュニケートしているということもコミュニケートしているという仮定) も含まれている (:ⅹ)。

 そして、このようにコミュニケーションについて見ていくなら、コミュニケーションはまた全体社会をテーマとすることもできる。つまり、全体社会 (=コミュニケーションの作動) が、全体社会を自己記述するのである (「自分自身を記述し、自分自身の記述を含むシステム」)。そして本書もまた、そのようなコミュニケーションの試みである (:ⅺ)。


第一章 全体社会という社会システム

Ⅰ 社会学における全体社会の理論

 全体社会の理論に取り組むときには、(観察もまた全体社会に含まれるので、) 必然的に自己言及的な作動のなかへと巻き込まれてしまう (:2)。この点で、「主体/客体」(観察者/対象) の二分を前提とする古典的社会学はあまり有用ではない。それらは対象との循環的な関係を十分に認知していないのである。パーソンズにしてもそれは同じだ (:7)。

 歴史に目を移すと、人間は「社会的な」生活の記述を、長いこと理念へと定位しながら行ってきた。しかし、やがて現実そのものに定位するべきだという方向転換が生じ、そこで社会学が必要とされた (:8)。しかしながら、社会学は全体社会については今のところ理論的に基礎づけられた理論を提出できていない。なぜだろうか。

 それは、全体社会を[1]人間から成る、[2]合意に基づく、[3]国家などの形で境界づけられた、[4]外から観察できるものとして想定しているためである (:11)。この想定を批判しておこう。まず、[1']人間を集めれば全体社会になるわけではないし、人間の細胞が入れ替われば全体社会が再生産されるわけではない。また、[2']パーソンズのように価値合意を持ち出すと、(全体社会の部分についてはともかく) 全体社会については希釈されたことしかいえなくなってしまう。さらに、合意に反するものは全体社会に含まれないとされてしまう。 

 だから、合意に基礎を見出すのはやめよう。我々は全体社会についてこう仮定するだけで十分ではないのか。「コミュニケーションが独自のかたちで続いていく中で、同一性、言及されるもの、固有値、対象が産出されていくのである」と (:16)。そして、ここから <システム/環境>の差異が導かれることとなる。

 だとすると、[1"]果たして人間は <システム/環境> のいずれに属するのか。全体社会を人間から成ると考えないようにするためにも、ヒューマニズム概念の失敗を考慮するうえでも、人間は環境の一部分としてみなされるべきである (:16)。

 再び検討に戻ろう。全体社会を境界づけられたものとみなすのはどうだろうか。これについては、[3']グローバル・システムへの注目からもわかるように、たとえ国家=全体社会と境界づけてみたところで、世界規模の相互依存を考慮する必要が生まれてしまうといえる (:17)。また、情報社会の未来も過小評価されてしまう。

 こうしたことにもかかわらず、現在でもなお、行為の概念は個人の想定を支え、グローバル・システムの概念はどこか国民国家の水準を支えている。なぜこの種の使い物にならない概念が生き残っているのか。[4']それは「全体社会を、外側から観察することができる何ものかとして考えたいという願望と関連しているのではないか」(:18)。結局それは社会学が今日でもなお「主体/客体」の二分から離れられていないということを意味しているのである。

 

 社会学は、「~とは何か」と問うことで、自身を不安定状態に置く (「企業とは何か」「都市とは何か」などという形で自分が対象にするものについて問うことで、自分を不安定な状態に置く)。こうした問いには最終的な答えを与えることはできない。だから、可能なのは「概念をこのように確定すればそこからどんな帰結が生じてくるかを観察することだけである」(セカンド・オーダーの観察。構成主義的認識理論のモード)(:21)。そしてまた、全体社会が自らあるメルクマールを産出してきたのだとしたら、問うことが可能なのは次のような問いだけだ。すなわち、全体社会の概念が何を指し示すべきかを規定して、かつそれを全体社会が産出しているということを考慮できるとしたら、それはいかにしてなのか。


Ⅱ 方法論に関する予備的考察 (*ここらへんでまとめるの飽きた)

・人はコミュニケーションをするとき、何が言われなかったかをも反省しているよ (:26)。意味形式は、言われなかった側=他の側を伴っているよ。だから意味概念・形式概念・再参入の概念をこのあと用いるよ。

・変数の概念を用いる方法論は、その変数から何が排除されるかを上手く語れない。行為の概念も、「可能な行為ないし相互作用の大半が生じてこないのはなぜなのか」を上手く問うことができない。果たして「全体社会は、まだ可能であるはずのものをどうやって選別し除外するのだろうか。[まだ]可能なものは極端なまでに過剰であるにもかかわらず、マークされない空間として、考慮の埒外に置かれる。このことが社会生活の形式として意味を持つようになるのはいかにしてなのか」(:27)。

・方法論的個人主義は、「あなたは何を知っていますか」と聞きがちだけど、そもそも非知の状態があるからこそ、コミュニケーション (情報の受け渡し) は可能だよ。つまり、コミュニケーションは常に「知らないでいること」という他の側を伴っているよ (:28)。さらにいえば、コミュニケーションを続けていくために必要な非知を産出し吟味するのはコミュニケーション自身だよ (:27)。(*話を聞いているときに何が起きているかをちゃんと理論のなかに組み込めていないということ?)

・説明を単純にしたほうが良いという人もいるけれど、そのときに何が排除されているのかは全然問われなかったよ (:28)。

・経験的研究をいくら積み重ねたところで全体社会の理論に到達しないということは、この100年の歴史が証明しているよ (:29)。

・じゃあこの先いろいろと補完していこう。


Ⅲ 意味 (*ここで脳が死んだ)

・全体社会の理論においては、意味なるもの (意味をメディアとして用いること) は前提とせざるをえない。「意味を用いることなしには、全体社会のいかなる作動も生じようがないのである」(:33)。だからここでは意味の問題に立ち返ることにする。

・議論を進めるために、まず〈システム/環境〉の差異がどんな帰結を導くか確認しておく。心的システムおよび社会システムの作動は、「観察する作動」である。すると、<システム/環境>の違いは二度現れていることになる。第一に、システム自体が生産する差異として。第二に、システムの内部で観察された違いとして。そして、これは第一の区別の内部 (システムの側) に第二の区別が<再参入>されているということである (|〈システム/環境〉/環境|)。再参入されている以上、ここにはパラドキシカルな状況がある。そして、(たとえば「この文は偽である」という文が安定した値を持たないように) この状況はシステムをそれ自身にとって計算不可能な状態に置く (ぷるぷると振動する)(:35)。そして、(このパラドクスを隠蔽するために?) システムは記憶を必要とする。過去の選択の結果として現在の状況があると考える必要を有するのだ (:35)。

 すると、ここからシステムは振動しているがゆえに「自分自身にとっても規定不可能な未来」に直面するが、記憶を必要とするがゆえにそうした未来に適応するためのストックを蓄積もするということがいえる (:35)。


・以上を確認したうえで《意味》の概念について。まず、世界=環境は、意味=システムにとっては計り知れない (不意をついてくる) 潜在的可能性でしかない (つまり、ヴァーチャルな情報でしかない)。それゆえ、意味の「同一性」が観察されるとしてもそれはヴァーチャルな情報に意味付けを行った結果である。(つまり、意味は意味とコミュニケートする。) 意味が反復的に使用可能になるのも、こうしたコミュニケーションによる (同一性は回帰を秩序付ける)。シンボルや記号や文などといった意味を帯びた同一性が算出されるのは、ただこのような回帰的なかたちにおいてだけである。ここから、同一性がある以上意味は作動の瞬間をはるかに超えているとはいえるが、だからといって言葉を使うときにいちいちその起源が参照されているわけではない。とにかく重要なのは、一瞬においてのみ、それらは使用されるということだ (:36-38)。

(*意味が生まれるためには世界からの刺激が不可欠であるが、意味自体は意味との間でのみコミュニケーションしている。また、意味は世界の実在といったものと対応しているわけではない。それは一瞬においてのみ使用されるものである。仮に同一性が見られたとしても、それはこヴァーチャルな情報を処理した結果でしかない。)


・意味としてあるものを指し示しているとき、必ず他の可能性への参照もまた想定されている (無である可能性すらも)(:38-39)。

 そして、意味は「現に与えられている意味のほうから到達しうる参照先が過剰であることとして記述しうる」。ここから意味の形式を <現実性 / 可能性> の差異として指し示しておこう (*現実にある意味と、それよりも過剰な可能性?)。

(*このように<現実的/可能的>の区別を用いることで、現実に対して否定したり疑問をもったりすることが可能になっている[現実の様相化]。そうした作動が「意味」である。)

・そして、現実化された意味は可能なものであり、可能な意味は現実化されうる以上、この区別の双方に区別が再参入される (:40)。すると、|<現実的/可能的>/<可能的/現実的>|となってしまうので、<現実的/可能的>の非対称性は相対化されてしまう。意味は、「世界の遍くところで同じものとして現れてくる」(:40)。

・意味をメディアとするシステムは、<システム/環境>の差異を意味の形式においてのみ把握する。つまり、<システム=意味>の方に<システム/環境>の区別が再参入されている (:40)。

・意味は〈自己言及/他者言及〉を区別しうる。たとえば〈意識/コミュニケーション〉といった形で (:41)。「意味はあらゆる心的システムおよび社会システムの、つまり意識ないしコミュニケーションによって作動するシステムの、普遍的メディアである」(:42)。(普遍的というのは、<意味/無意味>という区別が成り立たないことによる。無意味を論じる場合にも意味は再生産されてしまっている)

・意味は (というかすべては) 現在において生じる。しかし、意味は <それ以前/それ以降> を区別することによって、現在の複雑性を縮減している(:43)。

・作動の進展は、ほかのものを指し示すという形で行われる (選択と横断)。すると、(<現実性>から<可能性>へと次々に横断していくので?) 実現されているものは不安定に、可能性の側は不確かなものになる (:45-46)。

・「有意味に作動するシステムは、意味というメディアに拘束されたままに留まる。このシステムにとってリアリティはただ、自己の作動を継起的に実現していくという形式においてのみ存在する。(…) 意味は、複雑性を縮減するためのこのシステム特有の形式なのであり、そうであり続けるのである」(:47)。






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