河口和也 『クィア・スタディーズ』 (2003) 第1章「レズビアン/ゲイ・スタディーズ前史」 第2章「レズビアン/ゲイ・スタディーズ」
とある読書会で、「クィア・スタディーズの現在」という題で報告したもの。内容要約にコメントを添えて。なお、次の記事とセットのつもり。
第1章 「レズビアン/ゲイ・スタディーズ前史」 要約
1. 同性愛解放運動の黎明期―ドイツにおける同性愛の「犯罪化」と「病理化」― (p.1-7)
19世紀後半、イギリス・アメリカ・ドイツなどでは、同性愛の犯罪化と同時に医療化が進行していた。例えば医師ベンケルトは、ドイツ刑法175条に反対する立場から、同性愛は生得的なものであると主張する。彼の少し前に法律家ウルリヒスは、ジェンダーが転倒した性愛の形態として同性愛の性的倒錯をとらえ、それを 「ウラニズム」 と呼んだ。「男 / 女」 と 「心 / 身」 のカテゴリーを交差させることで、「同性愛とは、身体内部に 『倒錯して』 閉じ込められた 『異性の魂』 が、先天的にもたらす現象である」 と解釈するこの概念は、同性愛の 「自然性」 を主張し、それは取り締まりの対象にはなりえないと説明するものであった。こうした見方は、ヴェストファルやエービングらの発想の源となる (しかしヴェストファルはそのうえで同性愛への対処は医療的な治療に拠らなければならないとし、エービングも退化論との間で揺れたのではあるが)。
2. ホモファイル運動 (p.8-16)
こうした医療化の背景もあり、アメリカの初期ホモファイル団体であるシカゴ人権協会は、「精神的および心理的異常性」 によって不利を被った人々のために、「近代科学に即して事実を伝播すること」 を目的として掲げた。また、1951年に設立された 「マタシン協会」 は同性愛者の集団的アイデンティティの醸成するものであったが、これも内部対立により医学・法律・教育などの専門家の見識を迎合する方向へと進む。「自己」 の獲得による 「他者」 との連帯といったラディカルな方向性も、権力側から支援を得ようとする勢力からの反対にあうこととなった。
「マタシン協会」 はレズビアンの経験を軽視する傾向を持った男性主義的な組織であった。それへの対処として、1955年、「ビリティスの娘たち」 が創設される。「マタシン協会」「ビリティスの娘たち」 のいずれも 「同性愛に対する社会の態度を変えたい」 という考えでは共通していた。だが、売春斡旋や売春との関係があるとみられることを避けるため、雑誌や新聞等で情報を掲載するにあたっても、当事者の団体として自身らを表象せず、世間一般のジェンダー特性の概念を侵犯するようなこともしなかった。これらの団体はやはり同性愛についての専門家の見解を仰ごうとすることがしばしばであり、大衆を巻き込むような大規模な運動を行うことも不可能なままであった。
第2章 「レズビアン/ゲイ・スタディーズ」 要約
1. ストーンウォール暴動 (p.17-20) / 2. ゲイ開放運動 (p.20-23)
1969年、ニューヨーク警察によるゲイバー 「ストーンウォール・イン」 への手入れは、3日間にわたる暴動へと発展した。それまで差別や抑圧を受け入れてきた同性愛者たちが、その存在を世界にとどろかせたのである。この暴動はすでにゲイ・コミュニティ文化の萌芽的な営みが始まっていたという事実を示しており、運動が専門家との協調や依存から決別しつつあったことを示唆している。主流社会に受け入れられやすいマイノリティを目指さないという点からも、これはホモファイル運動とは性格を異にするものであった。解放主義的運動は、異性愛と非異性愛の差異を強調・可視化し、その差異からアイデンティティを確立する。彼らは1960年代の対抗文化運動の波に乗る形で運動を展開することができたため、こうした方向性へと踏み出すことができたのである。
3. 同性愛 ― 抑圧と解放 (p.23-29)
1971年、アルトマンはゲイ研究の古典ともなる 『同性愛 ― 抑圧と解放』 を出版する。それは同性愛をアイデンティティ・ポリティクスの枠組みのなかに位置づけるとともに、「寛容」 という差別を問題化し、また同性愛カテゴリーの終焉を目指す政治的なものであった。そして、こうした政治的指向ゆえに、アルトマンはコミュニティと社会運動との関係に切り込む。彼は従来のゲイ・コミュニティが持つ 「ゲットー・メンタリティ」(広範囲の文化的問題を排除しセクシャリティのみを強調する傾向) を否定し、自由な性的関係の構築を模索するコミューンの構想を抱く。加えて 「同性愛の終焉」 を目指す彼の論は、他者から名指される医療的カテゴリー (homosexual) への抵抗として 「ゲイ」 というカテゴリーを用い、ゲイ解放の先に異性愛/同性愛の対立が解消された 「多型倒錯的総体」 の実現を見据えるものであった。
4. ホモフォビアとヘテロセクシズム (p.29-31)
ワインバーグが 「同性愛嫌悪 (ホモフォビア)」 という概念を提唱した1970年代、学術界隈では同性愛を恐怖・嫌悪する社会の方を問題化することへの転換が起きていた。しかし、これは心理学起源の用語であり、新たな病理を生み出すという点で問題を有するものであったといえる。これに対して社会学的な研究領域から出てきたのが、性差別 (セクシズム) と人種差別 (レイシズム) を参照するヘテロセクシズムである。ただし、現在ではこの二つの概念は、ほぼ同義のものとして用いられている。
5. レズビアン・フェミニズム (p.31-39)
セクシュアリティの問題とジェンダーの問題が交差する点に、レズビアンの問題はある。従来私的であるとされた性の領域に 「家父長制」 が貫徹されているとするミレットの論は、この問題に目を向けさせるものであった。しかし、女性運動や女性学は、例えばレズビアン同士の関係には性別役割分業が絡んでいるとすることで、レズビアニズムに対し距離を取り続けていく。
1970年、「ラベンダー色の脅威」 と名乗る約20人のレズビアンたちが自身の経験を聴衆に語った。のちに「ラディカレズビアン」 を名乗る彼女らは、レズビアンが 「男と一体化する女」 であると疑うフェミニストらに対して、自らを 「女と一体化する女」 であると宣言する。彼女たちは、レズビアンが直面する問題は女性全体が直面するものであると説くことで、その政治的スタンスを表明したのだ。
1978年には、フェミニズムとレズビアニズムの不幸な対立を念頭に、リッチが 「強制的異性愛とレズビアン存在」 を執筆。そこで彼女は、男性同性愛とレズビアニズムが同じ 「同性愛」 カテゴリーにまとめられることで、女特有の経験が抹消されてしまうことを危惧する。例えば性差別による社会・経済的差別は、身体や意識のレベルにおいてまで異性愛を強制する。この力は女性一般に加えられたものであり、リッチは 「連続体」 というカテゴリーを用いることで、その事態を 「さまざまな線分によって分断された女たち全体の経験と連帯として概念化しなおしたのである」。
6. 「エスニック・モデル」 化する同性愛 (p.39-42) / 7. セクシュアリティ (p.42-50)
1970年代半ばになると、レズビアン/ゲイ運動はエスニック集団モデルを採用し、そのアイデンティティや文化的差異を強調するようになっていく。市民権その他の権利や他集団との平等を求めるエスニック集団モデルはしかし、そうした集団から / によって周縁化される人々による内部からの批判を誘発することとなった。例えば人種的差異の問題を二次的なカテゴリーとしかとらえないことへの批判が、有色の非異性愛者から提出された。
こうしたなか、マジョリティ/マイノリティ、異性愛/同性愛といった二元論的思考を基礎としてセクシャリティをとらえることに異を唱えたのが、セジウィックであった。二元論的性向を持つ 「性的指向」 のみを、人々を分類するカテゴリーとすることは、セクシャリティの複雑さや多様性を捨象してしまうことにつながるであろう。
セジウィックに先駆けてその可能性を探ったのがルービンである。ルービンはセクシュアリティの制度形態を、利害の対立や政治的な策略といった人間行動の所産であるとすることで、フェミニズム外部との関係だけではなく、フェミニズム内部・異性愛者コミュニティ内部において作動する抑圧の様式に目を向ける。例えばこれまでのレズビアン・フェミニズムでは、「SM、バイセクシュアリティ、ブッチ/フェム」 などは家父長制への同化を支持するものであるとされ、抑圧されてきた。1980年代には、そうした非標準化されたセクシュアリティを有する女性たちが、それを承認することを社会に対して主張し始めたのである。
コメント
● 性愛といったものの問題化の歴史。
序論に、クィア・スタディーズとは 「差異」 をめぐる思考の深化だとある (:iv)。ここでは改めて、その思考がどのように深化されてきたのかをまとめておこう。そして、それと同時に我々が注目するのは、目に見えないはずの 「心/愛/性/ジェンダー」 といったものがどのように観察されたのか / されなかったのか、それはどのような行動を引き起こしたのか / 引き起こせなかったのかという点である。クィア・スタディーズは規範が押し付けるカテゴリー化や二元論を瓦解させようとするものであるが (:vi)、そのように区別というものを実態視しない試みは [1]、観察者を観察することによって可能となる。「ある観察者がなぜ他ではなくその区別を用いるのか、それによって何が可能に/不可能になっているのか」 を問うとき、その人はすでにその区別を実態としては捉えない方向へと踏み出しているのだ。すなわち、上記の視点から歴史を眺めることは、それ自体が (区別を疑うという点で) 一つのクィア・スタディーズの試みとなる。このコメントでは、こうした視点から担当章の内容をまとめ、次の記事の内容へとつなげていきたい。
第一章1節で描かれるのは、同性愛を 「自然なもの」 として理解するために、「男 / 女」 の 「身 / 心」 といった区別が導入される過程である。この背後には、男性同士の性交や獣姦を反自然的なものとして処罰の対象とするドイツ刑法175条の存在があった [2]。そしてこの条項への反対意見が諸問題の医療化と犯罪化をめぐる当時の論争を背景に提出されることになるのだが、ここら辺は実際の論争がかなり複雑であるために全貌を見通しがたい [3]。ともあれここにおける論点とは 「同性愛 (とくに男性同士の性交) は刑法にあるように反自然的なものなのか」 というものであり [4]、それを論点とするために焦点は同性愛という 「セクシュアリティ (性愛)」 に限られることとなった。そのため (心と体が一致しないという) 現在なら 「同一性障害」 などジェンダーの問題として記述されそうな事柄も、ここでは 「同性愛の自然性」 をめぐるものとして問われることとなったのである [5]。
ここにおいて重要なのは、「同性愛」 に関して何らかの探るべき原因・理由があるとする視点が登場したということであろう。「同性愛」 は、ただ犯してしまった過ちとしてではなく、何らかの原因に引き起こされたものと理解される。そして、その原因は悪魔 (あるいは色欲) や対人関係、あるいは (古代ギリシアにおけるような) 自己統治の失敗といったものにではなく、人間の内部に見いだされるのだ。というより、「自然さ」 を証明しようとする以上、その原因は外部からもたらされるものであってはならないのである。こうして、「魂 (ある一方の性を愛する指向性)」 なるものを語ることが可能な場所が生み出され、その場所にはその 「魂」 を有した存在が求められることになる [6] [7] [8]。
そして、こうした形で問題化されたこともあって、ホモファイル運動は2節で触れられるように、「精神的および心理的異常性」 を念頭におき、それを解釈する専門家から切り離せないものとなってしまう [9]。また、人々をセクシュアルな部分で問題化するという傾向は、そのまま同性愛者を過剰にセクシュアルな存在として描くことにつながってしまい [10]、その結果として 「マタシン協会」 や 「ビリティスの娘たち」 の運動の方向性は制限されてしまうこととなった。
その後の流れは本文の通りであろう。例えばアルトマンは 「同性愛者 (homosexual)」 を他者から名指される医療的カテゴリーとし [11]、これに対して 「ゲイ」 というカテゴリーを自ら用いんとする。これは 「同性愛」 を 「他者による医療面での問題化」 から、「自己にとってのアイデンティティの問題」 へと置き換えようとする試みであった [12]。そして、そのためには従来のゲイ・コミュニティですら、そのセクシュアリティのみを問題化する姿勢 (アルトマンのいう 「ゲットー・メンタリティ」) ゆえに批判されなければならなかったのである。
その後、ワインバーグらに至っては、問いは 「なぜ同性を愛するのか」 から、「なぜ同性を愛する者を人々は問題として観察するのか」 という方向へずらされることとなる。ただし本書で指摘されるように、問題を個人の心理に落とし込むことは問題の個別化へとつながりうるため、この概念はこの社会における全体的な問題を見落とす可能性を孕んではいるのだが。
この章において最も面白いのは、レズビアンとフェミニズムの関係をめぐる部分であろう。その思考の深化は、本文のなかで二段階に分けて触れられる。
一段階目の深化は、「男と一体化する女」 と定義づけされ、レズビアン全体がフェミニストから距離を置かれたことに対し、当事者が 「女と一体化する女」 と自身を定義づけしなおすことによって行われた。レズビアンたちは自身のスタンスを位置づけるために、フェミニズムとレズビアンは同様の問題を抱える (リッチのいうところの) 連続体であるとする。そして、その連続する地平を生み出す問題として挙げられたのが、「異性愛を強制されている」 というものであった。
ここで起きた変化とはどのようなものなのか。経済に関する具体例を使いながら確認しておこう。周知のとおり、日本における男女間の賃金の格差はかなり大きい。このような状況がある以上、異性と結婚しない女性の生活は苦しいものとならざるをえない。したがって、女性は事実上異性との恋愛・結婚を強制されていることとなる。このとき重要なのは、同様の問題は (収入の高い男性同士のカップルである) ゲイ・カップルには見出しづらいということであろう。これはレズビアンのカップルが、「女性であるからこそ」 直面する問題であり、レズビアンでない女性もまた直面せざるをえない問題なのである。その点で、分断線は 「異性愛 / 同性愛」 ではなく 「男性 / 女性」 という部分に引かれていることとなり、レズビアンもまた男性優位モデル (「家父長制」) の犠牲者として理解されるようになる。こうしてレズビアンは、フェミニズムのなかに自身の位置を見つけるのである。
しかし、家父長制の犠牲者を発見しようとする姿勢は、当初レズビアンたちのことを問題化した視点 (レズビアン同士の関係性に家父長制の影響が見え隠れしているという視点) をレズビアンたちが内面化してしまうことも意味していた [13]。それゆえレズビアン・フェミニズムはその視点を用いて、「フェミニズムのなかに位置づけられる関係性」 と 「位置づけがたい関係性」 の区別をレズビアンのうちに発見するようになっていったようなのである。つまり、「男に一体化する女」 という問題発見の視点を、自身のうちに取り込み再演してしまうこととなったのだ。第二の深化が標的としたのは、まさにこうした点であった。
二段目の深化は、レズビアン・フェミニズムのなかの 「標準化された / 非標準化された関係」 という区別を問題化する。例えば、レズビアン・フェミニズムが 「SM、バイセクシュアリティ、ブッチ/フェム」 などの関係を抑圧してきたことが、「セクシュアリティの多様性」 という観点から問題とされるのである。ここにおいて運動は、個々の多様性をアイデンティティとして認め、それが承認されることを目指すようなものとなる。
こうした運動は、差異の思考の深化と親和的なものであるといえるだろう。「多様性を認める」 とは究極的には 「個別性を認める」 ということであり、あらゆる差異を考慮し続けるということなのだから。このようにして、クィアへの視点が開かれる。
● クィア・スタディーズ (あるいは脱構築) は何をもたらすのか。
しかし、実際のところ、これはいったい何をもたらすのであろうか。
アイデンティティを主張する運動は、自身の固有の価値を主張する。価値とは、相手に対して自分を考慮、そして包摂するように求めるものであり、それが持ち出されるところでは排除が上手く機能しなくなる [14]。ここではあらゆる意見が並べられ、あらゆる個別事象が考慮の対象となるだろう。しかし、それには一体どのような意味があるのだろうか。
本書では 「アイデンティティとアイデンティティの 『あいだ』 を、すなわち 『差異』 がどのように構成され、また切り結んでいるのかを考え」 ることで 「連帯可能性の地平が拓かれる」 とある (:iv)。しかし、カテゴリー化や二元論を瓦解させようとする試みが行き着くのは、結局のところカオスのような状態ではないのか。そこには一体どのような連帯可能性があるというのか。
「連帯」 とは、自身らとそれ以外のものを区別することによって成立する関係性である (「包摂/排除」 の区別が存在する関係性である) ように思われるのだが、上記のように 「固有の価値」 を持ち出して包摂を求める場合、連帯はどのようにして可能になるのだろうか。少なくとも運動という面からみた場合、クィア・スタディーズはまさに 「規範によって自己や集団の統一性が保証されているとするならば、自己や集団そのものの統一性を崩壊させるような 『危険』 に身をさらす」 ようなものであり、「切った刀で自分自身をも切り付けてしまう 『危険性』 をクィアの思想ははらんでいる」 といえるだろう (:vi)。
こうした危険な状況を確認したうえでハッキリさせておくべきだと思われるのは、実はクィア・スタディーズとはあらゆる区別の瓦解を目指すようなものではないということである。そのようにあらゆる差異を否定していたら、そもそも 「連帯」 という状況が成立できないのだから。
では、クィア・スタディーズをどのような試みとして捉えておくと、その状況を見渡しやすくなるのか。まずは、単に複数の区別を用いて事象を記述することで、新たな連帯の可能性を探る試みとして、捉えておくのが妥当ではないだろうか。そして、これは同時に、ある連帯が「包摂/排除」の区別を用いるものである以上、ほかの連帯とのコンフリクトを避けることはできないということも意味している。微細な差異への思考を研ぎ澄ますというクィア・スタディーズに求められるのは、(区別を否定し続けてカオスへと身を投げ出すことではなく) こうしたコンフリクト状況を整理すること、そして複数の 「包摂/排除」 領域の布置を整理することであるといえるだろう。
[1] カテゴリー化・二元論とは、「A / 非A」という形式を持つ点で一つの区別である。
[2] ドイツでは1794年に男性同性愛者を死刑にする法律が廃止された。その後1851年のプロイセン刑法典143条にて「男性間もしくは人間と動物との間で行われた自然に反する猥褻行為は6ヶ月以上4年以下の軽懲役刑に処し、また早急に市民権の行使を禁じることもある」と定められる。1871年のドイツ帝国刑法175条はこの内容を引き継いだものであった。なお、ウルリヒスが反対したのはプロイセン刑法のとき。
その後よく知られるように、1935年にはこの法規の適用が厳格化され、1960年代に再度改定。1994年にようやく完全廃止されるに至る。なお、「女性」に言及されていないことから、女性が処罰の対象となることはなかったという (以上、[石井香江「公的言説に刻印された両性関係 (ジェンダー)」,2001]参照)。
[3] 「犯罪 / 精神病」の区別をつけるための論争が、遺伝論 (退化論、変質論) などと混ざり合うことで、法学・医学・社会学を横断するかなり複雑な話へと発展していた。この論争についてそれなりにまとまったものとして、波多野敏「19世紀フランスの犯罪学における『社会』」(2001)。なお、そもそも同性愛を病と考えるかどうかについても意見が別れたので、「病理化」といえるのかどうか……。
[4] そもそもなぜ「自然」に反することが刑法上の罪になるのかを理解するのは難しいのだが、ヨーロッパではこの伝統は根強い。例えばダンテは『神曲 地獄編』のなかで、「ソドムの罪 (同性愛も含まれる)」を神の娘である自然に対する罪であるとし、地獄に行くべき大罪であると表象した。現在でも特定の性行為を性犯罪として定める法律をソドミー法と呼ぶが、こうしたところにある種の性愛を「自然」との関係において問題化するヨーロッパ旧来の伝統を見出すことができるだろう。また、「自然法」の観念とも絡めて考察する必要があるのかもしれない。正直よくわからん。
なお、フランス法学では19世紀末頃にかけて、そもそも「何が自然か」というのは、どの社会がそれを観察するかに関わるという方向から、「自然」「正常/異常」ゼマンティクの問い直しが行われた ([波多野:前掲])。この流れは個人的にとても面白いので、いつか記事にしてみたい。
[5] そもそもこの時期はまだ「ジェンダー」という概念すら存在していなかった。その概念の歴史や、ジェンダー概念登場以前にトランス・ジェンダーがどう捉えられていたのかのかについては、[渡部桃子「トランスジェンダーとは―その歴史、その可能性―」,2002]に詳しい。
[6] そしてまた、このように「魂」を想定するがゆえにバイセクシュアルやアセクシャルなどの存在は見落とされる。
[7]
[8] ちなみに、のちにフロイトの後継者らのなかには、同性愛を先天的病ではなく、幼少期のトラウマにより引き起こされたものとして解釈した者たちもいた ([渡部,前掲])。この「トラウマ」という概念が引き起こしたものについては、[イアン・ハッキング『記憶を書きかえる』,1998]。
[9] 精神分析の分野では、やがて同性愛は「人格障害」の一つとみなされるようになった。第二次世界大戦の後には同性愛を「病」とみなす傾向が強まり、アメリカ精神医学会は1952年にこれを精神障害に分類したという ([渡部,前掲])。
[10] 「マタシン協会」「ビリティスの娘たち」は売春との関係を疑われることを恐れた。ここでもまた、多様にあり得るはずの観察の視点が制限されてしまっていたことを指摘できるだろう。例えば、同性愛者同士で行われる売春・買春は、社会関係の視点からも分析されうるものである。しかしながら、それは「放埓さの証」として道徳問題化されたり、あるいは精神的な病として医療化されてしまったりする。いずれにせよ、問題は同性愛者の内にあるものとして、一般に理解されてしまうのだ。
[11] なお、この造語を生み出したのはベンケルトであり (:ix)、流通させたのはエービングである。
[12] 「社会にとって同性愛とは何か (それは犯罪か病気か。逸脱かあるいは寛容で受け入れられるべきものなのか)」という問いは、「同性愛者 / ゲイである自分とは何か」という問いへと変換された。その変換のなかで、他者による自己への隠された定義づけである「寛容」が、問題として発見されるのである。
[13] これは批判という行為の論理的な帰結であるといえよう。ある基準をもとに相手を批判するとき、批判者はその基準を自身にも当てはめることを要求される。「家父長制を批判する」レズビアンは、当然その批判を自分たち自身にも向けることとなるのである。
[14] その結果として、「どの価値も、それが価値であるという点で有意義である」といった、無情報な相対主義へ陥ったりする。
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