東日本大震災と、「絆」の終焉。 -結論


(以下は2013/2/11に追加したコメント) 記号が戯れるには、戯れるための「身軽さ」が必要である。つまり、記号をモード (流行) にするためには、なるべくなら記号内容が少ない方がよい。あるいは、記号同士の結びつきが非常に軽いほうが。

 政治などはいけない。これはとても重く、ひとつのモードが過ぎ去るまでにはけっこうな時間がかかる。人々の間を簡単に駆け巡るような、とても軽い記号。個々がそこに物語を読み込む余地を残す、ゼロ記号。

「絆」は、その軽さをもって人々の言説上に浮かび上がり、そしてスローガンとして駆け巡った。あのときは、「kizuna」がその身軽さゆえに国際語になるとまで、信じられていたのだ (http://kizuna311.com/)。

 しかし、「絆」はもう重いものとなり、運動は次第に速さを失い、そして静止しつつある。

 「絆」のモードの終焉。つまりここで、「絆」は (幾数回目かの) 死を迎えた。無論、記号の戯れは尽きることがなく、いずれこの「絆」にも再びのモードが巡り来るだろう。しかし、そのときはまだ遠そうだ。



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◯ Ⅳ 結論:東日本大震災と「絆」の死。


 論を閉じるにあたって、第2章、第3章の調査結果を、第1章の先行研究の視点から再解釈することを試みよう。結局本論は若者ナショナリズム論を経由しつつ、当初の問いにどのような答えを与えたのか。


 (1) 「つながりの社会性」の上昇

 はじめに、朝日新聞の95'阪神淡路大震災報道と11'報道を追った。結果として興味深かったことは、次の三点である。

①「絆」という語録を含む報道が90年代後半以降、とくに2000年代を通じて、震災とは関係なしに増加してきているたこと。( 阪神淡路大震災のときには、震災は「絆」に関連付けられなかったのだ。) 
② 95'と11'の世論調査における、<不安><備え><対策> から <絆の実感><絆の強弱><助け合い> への語彙の変化。
③ 報道の内容に注目すると、95'において「絆」は崩壊や喪失を問題として語るための語彙として用いられていたが、11'において「絆」は、再発見・再確認・強化を指すための語彙として用いられている。

 以上より、「絆」という言葉を今日のような形で用いながら震災について語ることのできる土台は、2000年代を通じて少しずつ用意されてきたものであったと結論づけることができる。では、なぜ2000年代に「絆」の重要性が上昇したのか。これを北田の「《繋がり》の社会性の上昇」という仮説に結びつけて考えてみたい。

 北田はウェブや携帯電話の普及といった「90年代半ば以降のコミュニケーション技術の変容」などを一因として、90年代半ば以降、《繋がり》の重要性が若者の間で高まっていると論じる。3章でもまとめたとおり、そういった「《繋がり》を求める同時代的リアルの象徴=徴候」こそが「2ちゃんねる」であった。「絆」報道数のゆるやかな上昇も、「《繋がり》の社会性の上昇」を表す一つの現象だったのではないだろうか。

 すると、とくに2000年代とは、「絆」という記号が純粋な関係性 (社会的・経済的な条件による関係性ではなく、当事者の自発的な意思によって結ばれる関係) の幻想を担うものとして、人々の間に浸透した時期であったと考えることができる。「絆」とは、関係性、それも外的な条件を通じて結ばれるわけではない "自発的で、だからこそ暖かな、人のつながり" のようなものを求めるがゆえに人々のなかで仮構された共同体のイメージを担いうる記号であったのだ。このようにつながりを希求するがゆえに、共同体を発見しようとする視点が強く養われ、それがなんらかのきっかけで共同体を「再発見・再確認」することへとつながる。崩壊や喪失を問題として語るための語彙として僅かながら用いられていた程度の「絆」という言葉が、再発見・再確認・強化を指すための語彙として頻繁に用いられるようになったことの背後には、こうした関係性への指向の上昇 (《繋がり》を求めること) が控えていたのである。我々がふとしたタイミングで「絆」を「発見」してしまったり、世論調査において「絆」を「実感」したかどうかを訪ねてしまうこと、それ自体が「《繋がり》を求める同時代的リアルの象徴=徴候」なのであろう。

 この点では、〈「絆」の連呼〉と〈「2ちゃんねる」という共同体〉は、その根底の部分でどこかつながるところを持つともいえる。だが、「2ちゃんねらー」が「絆」という言葉をどのように受容したかを見ていくと、《繋がり》の共同体が「絆」を空虚なものとして消費していた側面が (そして「2ちゃんねらー」的作法のある種の強かさが) 浮かび上がってくる。


(3) 記号を暴く、「2ちゃんねる」のジャーナリズム

 "純粋な関係性" の幻想を担う「絆」という記号。それが震災と結びついたのが、東日本大震災であった。しかし、記号はロマン主義者たちによって、その「仮面を暴かれる」ことになる。本論では「絆」の受容について確認するため、北田がロマン主義的シニシズムの行為空間の代表として取り上げた「2ちゃんねる」を調査した。結果は、次の2点にまとめられる。

①「絆」という言葉は「2ちゃんねらー」にあまり受容されなかった。たしかに初めは「感動の全体主義」が空間を支配したように見えたが、そこではまだ「絆」という言葉は利用されていない。
②「絆」が注目されるのは、「絆」が批判される潮流が生まれてからであった。「2ちゃんねらー」は独特のジャーナリズムで、「絆」が記号化されどんどん違うもの (政治や陰謀など) に結びついているということを「暴いて」いく。

 政治家達による「絆」の消費には、確かに香山や本田の論じるような危険性はあった。「絆」という言葉が不遜にも政治家によって意図的に利用され、いつの間にか指示対象を取り替えられてしまうという流れは確かに存在する (「震災」と結びついていたものが、いつの間にか「保守」と結びついていたように)。それが意図的なものであるだろうという点では本田の論は間違っていないし、その指示対象が危険なものに変えられていく可能性があるという香山の説も否定はできない。

 しかし、「2ちゃんねる」を見ると、受容の段階でその危険性はシャットダウンされていることがわかる。「2ちゃんねらー」のジャーナリズムのまえでは、「絆」ナショナリズムは成り立たないのである。


(4) 「2ちゃんねる」によるネタ化と、「絆」の死

 しかし、そうしたジャーナリズムは「2ちゃんねる」における受容の第一段階にすぎない。次段階として、つながりのためにジャーナリズムがネタ化され消費される段階がくる。「絆」でいえば、それが記号であることが理解されネタ化される段階が来る。それはネタとして消費されて、飽きられるのだ。

 ここにおいて「絆」という言葉は、もはや "純粋な関係性"の幻想を担うことはできない。その徴候は「絆」という言葉が被災者を排除しているというレスや、なにもしない被災者をなじるレスにあらわれているといえよう。

 マスコミや政府による「絆」連呼から起こる、「絆」への不信。その不信は、「絆」を陰謀論と強く結びつけた。この結びつきは、マスコミの形式 / 内容 のズレを批判する「2ちゃんねらー」にとって、確固たるものとなる。事実「絆」はすでに、その言葉が登場するたび陰謀論と結び付けられるようになりつつある。

 かくして、受容の段階から見た場合、震災直後に香山が述べた危惧や、本田が主張するメディアによる「意図的な操作・誘導」は大して意味のないものであったといえる。「2ちゃんねらー」の持つ不遜なナショナリズムのもとでは、「絆」も所詮コミュニケーションのツールにしかなりえなかったのである。「絆」にはナショナリズムを担う可能性はない。それどころか、「絆」は陰謀論と結合することとなり、「絆」という記号は、もはやモード (流行) の終焉を迎えた。もしナショナリズムがあるのだとすれば、それは「建前に隠された本音を暴く」というそのコミュニケーション作法、それを共有する共同体のなかにあるに過ぎない。「絆」という記号はすでに、その共同体によって消費され尽くした。「絆」は、もう誰にも見向きをされなくなったのだ。


(5) 結論:「絆」を取り巻く皮肉

 ここまでの論を踏まえて全体を見直すと、本報告は「絆」を取り巻く一つの皮肉を明らかにしている。この皮肉を示し、これをもって本報告の結論としたい。

 「絆」は、震災に関わる多くの場面において他者との接続を再発見・再確認したという文脈で語られた。しかし、「2ちゃんねる」を見る限り、それはネタ化され、《繋がり》のためのコミュニケーションツールとして消費されている。「絆」という言葉に託した "純粋な共同体" という幻想が、「理念・共有価値の支えなき共同体」(= 2ちゃんねる) のなかでパロディ化されていく。「絆」は "共同体の復活" も "ナショナリズムの再興" も担えず、記号としてのモードを終焉させたのである。あれほど「絆」が強調された東日本大震災が、「絆」という記号に一つの死をもたらしたのであった。


 

〔参考文献〕

浅野智彦 1999 「親密性の新しい形へ」『みんなぼっちの世界』 恒星社厚生閣 | 浅羽道明 2004 『ナショナリズム』 筑摩書房 | 北田暁大 2005 『嗤う日本の「ナショナリズム」』 NHKブックス | 北田暁大 2011 『増補 広告都市東京』 ちくま学芸文庫 | 香山リカ 2002 『ぷちナショナリズム症候群』 中公新書ラクレ | 高原基彰 2006 『不安型ナショナリズムの時代』 洋泉社 | 本田由紀 2008 「現代日本の若者のナショナリズムをめぐって」『軋む社会』 双風舎 | 内閣府 「阪神・淡路大震災教訓情報資料集」(http://www.bousai.go.jp/1info/kyoukun/hanshin_awaji/earthquake/index.html 2012/06/16参照) | 内閣府 「東日本大震災関連情報」(http://www.bousai.go.jp/ 2012/06/16参照) | 警視庁「東北地方太平洋沖地震の被害情報と警察措置(2012/06/13版)」 (http://www.npa.go.jp/archive/keibi/biki/higaijokyo.pdf 2012/06/16参照)。



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