選択と責任と保障についてのメモ。


 ある選択肢が存在するようになることで、そこに選択が観察されてしまう。そして、「お前が選んだものだからお前が責任をとれ」と言われる。すると、やがて支援が拡大されたら「野宿すること」は「選択 (ないし趣味、わがまま)」の一つとなり、支援の対象とはならないかもしれない。これについて少し書き殴ってみる。


 「社会」に責任がない、という状況になったらどうなるのか。「社会に責任があるから社会に責任をとってもらおう」とは言えなくなって、「自分で野宿を選んだ」のだと言われる。すると、「自分で選んだのなら、自分に責任があるのだから、自分で責任をとってもらおう」という話になる。

 まず、「自分で選んだのなら、自分に責任があるのだから、自分で責任をとってもらおう」という考えは、基本的には妥当だ。というか、誰にでも共有される考え方で議論を進めたほうが良いという縛りを設けるなら、ここは反論できない。(以降も、これは前提にしながら話を進める。)

 だが、程度の問題はある。例えば、「自分で選んだ」ことを行い、それを行うことで「その人が死ぬ」ことがあったりする。それを許しても良いのかという問題はある。「死ぬ」ということを強調するために、「自殺」を例に考えてみよう。いくら「私は自分で死ぬと決めたんです」と当事者が言ってみたところで、行政は「自殺」を (少なくとも建前上は) 放置しない。対策が練られる。これはなぜなのだろうか。

(1) やはりここでは、まず「本当に自分で選んだことなのか」が問われている。社会の問題ではないのか、と。

(2) では、これが社会の問題ではなくなったとしたら? 人が死ぬと知っていながら放置するのは許されるのかという問題は依然としてある。

(3) そして、そもそも「自分が選ぶことができる」ものの範囲に、「自分の死」というものは含まれるのかという問題もある。

(4) ただし(1)(2)(3)には根本的に、そもそも「自殺」が社会の問題ではないとどのようにして言いうるのか、あるいは「自分が死を選ぶ」とはどのような事態を指すのかという問題が在る。これについては、少し考えておいた方が良い。 (ⅰ) そもそも議論の前提には「「社会のせいだ」といえないような自己の選択が実現したら…」という仮定があった。この仮定を成り立たせるためには、(ⅱ)「死を自分で選んだ」といえる状況が成り立つことを証明してみせる必要がある。(ⅲ) これに観察という概念を導入しながら言い換えると、「「あの人は死を (「社会」によって選ばされたのではなく) 自分で選んだ」ということを、どのようにして我々は観察できるのか」、という問いになる。

 このように整理したうえで、一つ素朴な指摘をすることができる。社会という概念が胡乱である以上、おそらく「あの人は死を (「社会」によって選ばされたのではなく) 自分で選んだ」と断言することはできない、ということである。なぜだろうか。「社会」のなかに「私」が含まれている以上、私が選ぶことと、社会が選ばせることは、そもそも分けられないからである。この単純なことが、忘れられているし、あえて無視されている (無視されることで可能になっていることがある)。

(やはり自殺を例に、もう少しマジメに考えてみても良い。自殺は数えられ、動機に応じて分類され、常に問題化されている。どんな自殺一つであっても、それが動機というものを通じて没個性化され、「社会」というものへと繋がっている。)

 まず単純に、本当は<自己/社会>という二分法が成り立たないのであり、だから本当は「自己責任」「社会の責任」という考え方自体が成り立たないとはいえる。

 それではなぜ「社会」という言葉を使うのか。そう問われれば、便宜上「私一人」の状態との対概念を持ち出すことによって、問題を観察するためだと私なら答える。たとえば、高卒女性の一生涯における平均月給は額面で約20万であり、最低生活費に達しない母子家庭はかなり多い。平均月給が最低生活費に到達しないということは、「私一人が怠けていたから、いま私は苦しいのだ」とはなかなかいえないということになる。働いて平均月給をもらってなおみんなが最低生活費に到達しないのであれば、それはもう「私一人」ではなく「社会」が (このばあい高卒女性に対して用意される労働環境が) どこかおかしくできているのだとしか言いようがないだろう。また、他国との比較を入れてみても良い。例えば「ひとり親世帯の就労率が高いにも関わらず、ひとり親世帯の子どもの貧困率が高い国は、日本を除いてほとんどない」とする。すると、「私一人がおかしいというより、日本の「社会」がどこかおかしいのだ」という話になる。こういったことを踏まえると、それじゃあ「社会」のほうを (例えば、就労であったりを) 変えましょうよという話になる。でも、変わるまで待っていたらその間苦しい。死んでしまうかもしれない。そこで、「社会」がおかしいのだったら、「社会」にある程度まで生存を保障してもらいましょうという考えが成り立つ。「社会」に責任をとってもらいましょうと。

 稚拙な例しか展開できなかったが、このようにして「私一人」以外のところ (=社会) に問題が観察される。一般に行われるこのような観察は、基本的に<自己 / 社会>という二分法に則ることで可能になっているのである。

 だが、(繰り返しになるが) このような二分法は成り立たない。どこにでも社会は発見することができてしまう。

 それは良いことだろうか? 「社会」をどこにでも発見できるということは、どんな場合においても責任を「社会」に発見する人はあらわれるということを意味している。「私は選んだ」という声を無視して「社会に選ばされた」ということを言ってしまう人を容易に生みうるということだ。これはどうなのだろう。おそらく「パターナリズム」といった言葉で批判されるのだろう。

 しかし、パターナリズムといった批判が成り立つのは、「私は選んだ」と「社会に選ばされた」を二者択一のものとして捉え、前者を無視し後者を重視する場合においてだ。これは基本的に<私 / 社会>の二分法に則った論法なのである。だから、その二分法が成り立たない場面においてそれはいえない。

 じゃあこの状況をどう捉えるべきか。わかりやすいのは、「自己の選択」は「社会の状況」のなかで行われるので、これらは切り離せないというこれまた常識的な考え方だ。しかしこの考え方はほとんど何も言っていないに等しいので、<自己/社会>の二分法に則って「社会に責任がある」と述べる論法に比べると無力に近い。

 だから、ほんとうのところは、基準を示すだけというのが一番良いのではないか。<自己 / 社会>の二分法に乗っ取らないなら、「社会の責任」とはいえないし、「自己責任」を求めることももうできない。そうすると、「社会の責任」だから「社会は◯◯をしろ」ともいえなくなる。その問題は在る。しかし、上記(2)で書いたように、知っていながら見殺しにして良いかどうかという問題はこれとはおそらく別に、依然として在る。知っていながら見殺しにした場合は、今度は「あなたは助けることができたのに、見殺しにしたのだ」と言われる。すでに保障が厚い社会なら、なおさら「助けることができたのに」と言われる。つまり、ここでは「助けない」ということが選択の一つになるのである。この流れで、「死にかけている人を放置すること」を非難することはできる。では、「死にかけている人を放置しない」ということを徹底するためにはどうすればよいか。どんな人であれ、最低限の基準に達していない人 (死にかけている人) には保障を与えるべきだという話になる。これまた単純な (しかし今現在無視されつつある) 話だ。

 これが〈過剰な包摂〉につながるものであることは全く否定できない。これは上記(3)に関わるし、もっと広い範囲に関わる問題である。


 ただ、今日はもう寝ないとなので、とりあえずこの辺で。


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