野田地図第20回公演『逆鱗』感想


*ネガティブ寄り感想。ネタバレあり。事前に想像していたものと違った、という程度の勝手な感想*


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 手短に。

 先に結論を言っておくと、野田演劇がかなり好きな私だが、『逆鱗』ははっきりいってつまらないと感じた。演技は申し分ない。しかし、肝心のストーリーが残念。以下にそう感じた理由を書く。

 あまり本質という言葉を使うのも嫌なのだが、野田演劇には、同じく「戦争」をテーマにしたもののなかにも「多くの事件が抽象化される代わりに複雑な筋書きになる場合 (『オイル』『南へ』など)」と「事件や本の内容をそのまま描き出そうとして単純になる場合 (『ロープ』『エッグ』など)」があるような気がする。今回は後者だった。

 別に後者が悪いといっているわけではない。ただし、あえて演劇化し幻想的な世界をそこに加えるのであれば、そこでの描写が具体的な事件の内に潜む本質を浮かびあがらせるようになっていてほしい。そう思うのは当然だろう。だが、今回の舞台設定の多くは、ただの目隠しになってはいなかったか?

 「幻想的な世界の内からグロテスクな事件が浮かび上がる」という手法はなんども用いられているし、おもしろいものはとてもおもしろい。しかし、それは幻想的な世界が物語の本質を表象しているからおもしろいのであって、ただの目隠しとしての機能が強くなっていけば、冗長なだけの代物になってしまう (それも事実を歪めているという点で大きな問題を含むことにすらなる)。

 今回の場合はどうだったのだろうか。正直なところ、前半で出てきた要素が後半に描写された事件のなかでどれだけ回収されていたのか、それほど理解できていない (理解できていないから、ただのベールみたいだったという感想を抱いているのだが)。しかし、たとえば〈古代の人魚はみんな歩けないというわけではないのに、そう描写されてしまう〉といった人魚のマイノリティ性を示唆するような描写などは、いったいどこに行ってしまったのか。アキレス腱は? 腐乱死体じゃなきゃ食べられないから殺すという話は?人魚=人間魚雷だったと考えて見なおしてみて、整合性はあるのか。一つ二つであれば、ミスリードのための要素なのだと納得はできる。しかし、今回は少し多すぎやしないか?

 (私が物語を理解できていないだけの可能性も高いし、むしろそうであることを願う。テレビで放送されたら見直すつもり)


 さて、仮に本質をそれほど捉えていないように見えても、時勢を捉えたものであれば良い場合もある (これもまた一つの本質である)。たとえばこの劇を製作していたであろう期間で「日本の戦争の愚かさ」というと、安保法のあれこれを思い浮かべることができる。

 しかし、こうした時制を捉えられていたかというと、(あえて時間を現在と70年前で二重化する手法が採られていたにも関わらず) そうなっていなかったように思える。

 今回描かれたのは、敵のいない (敵が不明瞭な) 戦いであった。敵のいない戦いを描くことは、しばしば戦争の愚かさを強調するために使われる (敵が誰かもわからないし、みんな止めたいのに、自ら志願した (かのように) 死んでいく)。

 これもまた一つの真理を描くものなのだが、こういう話はいくつも作らなくても良いように私には思える。というのも、大体の場合人間は「自分たちよりもあいつらのほうが愚かだ」とおもうことによって、自分たちの愚かさを棚上げできてしまうのだから (『the BEE』や『ロープ』はこれに関わるものだっただろうか)。しかし、敵なき戦いのなかでは、そのような形で愚かさを隠してしまうことに役立つ様々なシステムの存在が視野に含まれなくなってしまう。その結果、敵がいないのに (不明瞭なのに) 戦い続けるという愚かさを強調することはできるが、敵がいるからこそ愚かさが隠されるという側面が無視されることになり、「そもそも戦いを続ける必要がないからやめようと思えばやめられるのに、戦いを続けてしまう」という単純な話に多くのことが回収されていくことになる。「なぜ戦いを続けてしまうのか?」が上手く描けなくなるのだ。

 もちろん「なぜ戦いを続けてしまうのか?」という問いに「自分の言葉で話せない」などの形で説明をしていたじゃないかという人もいるだろう。私もそのような形で答えていたようには思う。しかし、こうした描写は面白みも新鮮さもなく、上で描いたとおり単純化されすぎた状況での指摘ではないか? 正直なところ、私はほとんど面白さを感じなかった (というか手垢に塗れた話だと思った)。ここに関しては「いや、繰り返し伝えることに意味がある」と考える人もいるかもしれない。それはその通りだが、しかし、いまやる必要はないと私は考えている。今現在の愚かさを炙り出せているとは思えないのだ。

 結局、敵を想定しないことで、視点は内部の非合理性にばかり向かうことになる。外部までもを視野に含めた話にならない。だから、(軍需産業の話などさまざまな点で今日的な話に結び付けられている (だからこそ時間が二重化されている) にも関わらず) 今日この日本に蔓延る愚かさを描き出せていないようにみえるのである。


 以上。残念ながらよくある話の繰り返しであり、愚かさの本質をハッとさせるような手法で捉えられているようにも見えず、また人魚などの話が効果的に機能しているようにも見えなかった。これらの点から、ストーリーがとても残念な演劇だった。

(*あと、あそこで描かれた悲劇は、敵が存在している場合は美談として機能しうる。美談を否定して描く悲劇ですら、使い方によっては美談として利用されうるのだ。だから、あの話で「とても感動」したり「可哀想すぎて泣いてしまった」人こそ、いざというときに利用されないように注意したほうがよいと思う。余計なお世話だが)

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