私が私をコントロールすることについて ― ツイートメモ。


ちょっと前にした一連のツイートをちょっと訂正しつつ、メモ。


*****


 むかし飲み会のとき、全然普通にしてたのに「面白くないなら無理して笑わなくていいよ」って言われたことがあって、現在の「ついさっきまでなんでもなかったことについて、なぜなんでもなかったのかの理由を説明することを求められてしまう」という状況はそれと割と似ている。

 この形式の思考の面倒なところは、メタ的な形式をとっているのでどうしても複雑にならざるをえないとこ。これが (飲み会での一場面とかそういう) 日々のエピソードくらいのレベルであればそこまで深刻ではないのだけど、この思考になんらかの病名をつけられた場合は大変だなと思う。常に自分の作る関係をメタ的にモニターすることが必要になってしまう。

 たとえばある病気だと診断されることで、「あなたは人と上手く関係を築くことができません」と規定されてしまう。➡︎ 常に自分が上手くやれているかどうかについて考えてしまう。➡︎ 状況にコミットできなくなる/離人的になる。➡︎ 上手く関係を作ることができない。という負のループになりうることは容易に想像できる。

 そういう状況に陥ってしまった人は、この、私の、今のような気分がいつまでも続いて、いつでも (これまで何も考えずにやっていたことでも)「なぜそれをやるのか/それで上手くいくのか」を考えなければならなくなってしまうのだと思うと、それはそれは辛いことだなと改めて思った。
 人から心配されればされるほど、基盤が切り崩されてしまうし。


 こうした状況に対して、「悩んでも仕方のないことは悩まない」という戦略を採ることもあるかもしれない。「私は病気だとして、だからそんなことにいちいち悩むことはない」、と。しかし、これも無効になってしまうことが予想される。「悩んでも仕方のないこと/あること」の境界が正しいかどうかを判断できる/できない、というところにまで病名に思考が影響されてしまうから。


 日々の状況をモニタリングすることは、処理すべき情報量を膨大なものにしてしまう。複雑になりすぎると、どこかでその繰り返しとモニタリングは停止して、思考は停滞してしまう。ただ、名状しがたいモヤモヤした感覚、ときにどうしようもないほど大きな無気力感だけが残される。

 最後には「自分にとっての普通が自分にとっての普通だ (だから、他者からのアレコレに悩む必要はない)」というトートロジカルな自己肯定をするしかなくなるかもしれない。しかし、そのように自己を肯定するためには、自分にそれなりの自信を (強い自己肯定感を) もっている必要があるわけで、これもまたトートロジーである。

 では、一体その自己肯定感の源泉はどこにありうるのか。ここまで来ると、月並みな話になる。「別にそれで (いまのままで / いまのような行動で…) いいじゃん」「何もおかしくないじゃん」という他者からの肯定が必要なのだというところに。もちろん、これはあくまで源泉でしかないので、これがあれば全て解決するということではない。ただ、これがないと道は険しい。

 他者からの根拠づけを何も持たない自己肯定は、(本人自身にとって)「狂気」と見分けがつかないかもしれないのだから。

 他方で、他者からの肯定があれば済むわけではないということは、容易に想像できる。私がその肯定を受け入れられるかどうかは別問題なのだ。なおかつ、私が「他者のある肯定は嘘ではない (皮肉や慰めではなく、他者が私を “ほんとうに” 肯定している)」と判断するとき、そう判断する自己を正しいと判断することの根拠付けは果たしてどこにあることになるのか (私は、私の判断が「正しい / 正しくない」という判断を、「正しく」行えているという確信を、どこから得ることができるのか)、これを考えるとここでもなおトートロジーにはまり込んでいることがわかる (https://note.mu/siteki_meigen/n/n7f842ec74a5f の(7)にも関連することを書いた)。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?