『アナと雪の女王』短いネガティブ感想: で、これは何を伝える映画だったのだろう?


*2014/12/22に公開していたもの。


 エルサは、自分の意図せぬところで人に害を与えてしまう。彼女は王国が氷に覆われたことにも気づかず、アナの心臓に図らずも氷の魔法をかけてしまう。
 そのような出来事は、エルサに自身の存在そのものを〈罪〉のようなものとして感知させるであろう。「ありのまま」の自分を出すことがそのまま人への害に通じてしまい、自分を隠しても隠しきることができない。
 ラストシーン。「お前のせいでアナは死んだ」と(いう嘘を)伝えられたときの彼女の絶望は、計り知れないものであっただろう。彼女はそこで動けなくなってしまう。
 しかし、この絶望の表現とは裏腹に、彼女の〈存在〉についての問いはどこかおざなりのまま幕は閉じる。

 あの結末は、わからなくはない。
 彼女はいままで人から逃げてきたが、「愛」という能動的な気持ちを知った。そこで魔法が制御できるようになったのだと。
 しかし、それでも問題は解決されたことにはならないだろう。
 発端となった子供時代の事件を思い出してみよう。あのときのエルサは人を怖れてはいなかった。またそこで起こった事件も、彼女自身の態度に問題があるというよりも、やはり自身の力が意図せぬ形で害を与えてしまうことに力点が置かれていた。したがって、冒頭で提示された問題と、ラストで提示される答えは食い違っている。問題は〈(人と触れ合わない/人を愛さないといった) 意図しない〉ことではなく、〈意図したことの外で全く予想外の出来事が起こってしまう〉ことにあったはずだ。だからこそ彼女は人との接触を闇雲に恐れるようになったのである。問題は〈意図する/しない〉という自由意志のレベルにはない。問題は存在のレベルにある。
 したがって、次のようにいえよう。彼女がその根底に抱く問題と、ラストで提示される答えが食い違っている。彼女の〈存在そのものの罪〉についての問いは答えを得ていない。答えを得ていないにもかかわらずエルサが国民から受け入れられるようになる理由はただひとつ、なにはともあれ彼女が力の制御を覚えて「正常」になったからにすぎない。なぜ「正常」になったかはわからないまま、エルサは「正常」な人間として受け入れられることで、存在を保証されるのである。  

 「オマエもモンスターなのか?」と問われたアナが、
 「I'm completely ordinary!」と応える場面があった。
 「わたしは完全に正常よ!」。

 このように〈モンスター / 正常〉の軸を提示したうえで、ラストシーンは「正常」になったエルサが受け入れられる。
 彼女が〈モンスターとして存在せざるをえないことの苦痛〉は、〈アナの真実の愛〉という相関項を経て、〈正常になったことで存在を受け入れられる〉という形で解消される。しかし、〈アナの真実の愛〉と〈エルサの存在への問い〉との関係はどこにあったのであろうか。
 少なくとも、私にはどのような関係があるのかわからなかった。結局のところ、この映画は何を伝えるものだったのであろうか。
 


 

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