消費社会と欲求の観念 ―消費社会論はどのような人間を発見したのか―

 

 2014年10月ごろに公開したので、いまから2年前くらいに書いたもの。

 出来が悪いこともあったりなんだりでもう二度と読み返したくないと思っていたけれど、なんとなくいまなら読み直せそうだったので、公開してみる。

 ちなみに、もっと大きな話 (消費が道徳問題となってきた歴史と、その問題構成についての話) に位置づく予定のアイディアスケッチだった。具体的な対象の分析を含んでいないので、この文章だけ読むとなんかすごくふわふわしている。


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Ⅰ 序論

1. 本稿の目的

 本稿では「消費社会」(以下,括弧を外す) について論じていく.ただし,本稿は消費社会を直接取り上げて,たとえば「社会の実情」なるものを明らかにしようとはしない.

 では,何を明らかにするのか.本稿が明らかにするのは,〈「消費」を通じて社会を語るという視点の登場が,果たしてなにを生み出してきたのか〉ということである.たとえば,かつてフーコーは知の秩序のなかに「生産」というものが実在しなかったことを指摘し,また「生産」という知がどのような「人間」を発見してきたのかを明らかにした[Foucault,1966].本稿はこれを「消費」についての知に適用する.果たして,「消費」についての知はどのような「人間」を発見したのか.「知の諸領域」が「新しい対象」「新しい概念」「新しい技法」「主体のまったく新しい形態と認識の主体」とを生み出すとして[Foucault,1974=2000],消費社会についての知は,いかなる認識の主体と,認識の対象・概念と,認識の技法を生みだしたのか.


2. 本稿の意義と位置づけ

 しかし,「そもそも消費社会を明らかにするのであれば,技術の変化や経済の発展に注目すべきではないか」という反論が当然想定される.これについては次のように答えておく.「技術の変化や経済の発展が起こったことは否定しない.しかし,消費社会論はそもそもそうした事実についてのみ論じたものではなかった」.では,消費社会論はなにを語ったのか.消費社会論が語ったのは,「新しい欲求の登場」である.

 では,あえてこれを取り上げる意義はなにか.それは,これを追うことで「人々が自分自身にかんする認識を展開する種々の仕方」[Foucault,1988=2004:18]を明らかにすることができるためである.消費社会と欲求についての言説のなかで,我々は常に不可避的に「人間」とはなにかを問いなおし,世界と同時に自己を再認識・再構成してきた.こうした問い直しがどこへ向かっていくのかは定かではないが,そこで提示される人間・欲求観を二次観察することは,その知がいかなる実践を可能にし,あるいはどのように実践を規定してしまったのかを明らかにすることにつながる.


3. 対象・構成

 代表的な消費社会論をレビューし,そこにおいて人間の欲求がどのように論じられてきたのかを明らかにしていく.ここではとくにガルブレイスを中心に取り上げることにしよう.ガルブレイスは消費社会の欲求をどのようなものとして捉え,それはどのような自己主体化の可能性を生みだしたのか.

 続いて,アメリカで大々的に受容されたボードリヤールの消費社会論が,どのようにガルブレイスを批判したのかを論じる.そのことによってポストモダン的消費社会論が「人間」という観念をどのようにして乗り越えようとしていたのか,そしてそれはどのようにして自己主体化の可能性を喪失させたのかを明らかにする.


Ⅱ 本論

1. ガルブレイス『豊かな社会』:〈自然で基礎的な欲求の発見〉

 消費者の欲求の特徴を明らかにするためには,先に生産者の欲求の特徴を明らかにしておく必要がある.資本主義というものをつくりだしたプロテスタントたちは,自身の内にどのような欲求を発見したのだろうか.佐藤俊樹はウェーバーを詳細に検討しながら,プロテスタンティズムは「経済的な欲望が《無軌道な本能的享楽》であることを発見した」,つまり「《無軌道な本能的享楽》たる欲望を禁止したのではなく,禁止の対象として《無軌道な本能的享楽》たる欲望を新たに創出した」のだと論じている[佐藤,1993:51-2].ここでいう経済的な欲望とは,金銭の獲得のことを意味する.彼らはそれを「利己心」「貪欲」とし,人間のもつ「原罪」と結びつけ,そしてその罪を〈自由意志〉をもった人間に帰せた.欲望を抑制すべき自由意志を持ちながらも,それを抑制しない.そのことこそが罪であるというわけだ [2].

 このプロテスタントによる欲求観察を二次観察すると,次のような解釈が可能となる.プロテスタントは〈欲望〉と〈欲望を統治するべきである,自由意志をもった主体〉を,同時につくりだした.「プロテスタンティズムの原罪論は,罪の原因としての無限の欲望とその罪を帰責されるべき根拠となる自由意志とを,個人の内部に同時につくりだしたのである」[同上:54] [3].

 では,こうした欲求に対してガルブレイスが発見した欲求とはなにか [4].それは端的にいえば〈自然な欲求〉であった.よく知られているようにガルブレイスは,消費者の欲求が,欲求を満足させる過程に依存していることを指摘した (依存効果)[Galbraith,1958[1998]=2006:207].たとえばある人物の消費は,他の人物の消費欲求を生み出すかもしれない (消費者同士の見栄張り競争).あるいは生産者は宣伝などの活動によって,積極的に欲求をつくり出すかもしれない[同上:204].「物の生産が満足させる欲望は,その物の消費がつくり出した欲望であるか,またはその物の生産者がつくり出した欲望なのだ」[同上:207][5].

 彼はこのように主張することで,人びとの自律的な欲求の存在をもって生産の重大性を正当化する既存の経済学に異を唱えたのである.欲求が生産に依存したものであるならば,欲求の存在を理由に,無批判に生産の拡大を肯定することはできないと考えたのだ.人びとは,伝統と神話によって生産に関心を持つように強制されている.経済学的な通念によって,「生産の重要さ」という暗黙の前提それ自体を疑うことができないでいる.生産の増加が幸福の追求につながると信じている.依存効果の指摘は,こうした視点に疑問符を投げかけ,新たな経済観察への道を拓くものであると,ガルブレイスは考えていた.「われわれはそれ[生産の増大]以外の機会を探求する自由を得るのだ」[同上:409].

 こうしたガルブレイスの議論は,どこかで「自律的な個人による実質のある欲望」と「生産過程に依存する空虚な欲望」を区別している[内田,1996:21].「ガルブレイスにとって,個人のもろもろの欲求は安定化可能である.人間の本性には何かしら経済的原則のようなものが存在していて,『人為的アクセル』の作用がなかったなら人間の目的や欲求および努力にさえ限界を設定するだろうというわけだ」[Baudrillard,1970=1995:87].問題は「人為的アクセル」をかけるテクノストラクチャにあり,「自由で意識的な主体」がテクノストラクチャの創出する欲求によって操作され,受動的に消費させられていることにある.

 言いかえればガルブレイスは〈自発的で自然で基礎的な欲求 / 他発的で不自然で過剰な欲求〉の区別を用いて,後者が前者を疎外しているという形で議論を展開したのである [6].こうした二分法はそのまま消費社会への異議申立ての根拠となった [7].欲求の内容を吟味し,あるいは生産による欲求の創出を止めることができれば,「自由で意識的な主体」が「物語の終わりにハッピーエンドとして再登場」する[同上:91]というわけである.

 しかし,そもそも〈自然な欲求〉なるものは存在しうるのだろうか.これについてはもちろんフーコーや,それに影響を受けた構築主義者たちが疑いを挟むところであろう.しばしば人間にとって基本的な要素であるとされる性的欲求も,それを発見・認識する仕方は普遍的なものではなかった[Foucault,1984].また,ガーゲンは消費社会論に触れながら,「操作される犠牲者」像は心理学的モデルに埋め込まれており,そうした見方には大きな問題があると構築主義的視点から述べている[Gergen,1999=2004:293].あるいはボードリヤールのいうように,消費はレヴィ・ストロースの分析した未開人の親族体系と同様,記号と差異のコードに基づいた行為であり,個々人のもつ欲求とは無関係のものであるのかもしれない[Baudrillard,1970=1995:97-8].〈自然な欲求〉がかつて存在していた (現在疎外されている) という考え方は,それ自体多くの疑問の余地を持つものである.欲求の形態というものが観察できない以上,それは欲求についての,多様にありうる観察のなかのひとつに過ぎない.

 するとガルブレイスとは,(現実の社会経済をどれほど正確に分析したのかはさておき,)〈自発的で自然で基礎的な欲求 / 他発的で不自然で過剰な欲求〉という区別を消費社会論に導入し、その後の消費社会論を経路付けた学者であったと評価できる.それを踏まえたうえで、改めてプロテスタンティズムの発見した欲求との差異を指摘しておこう.先に述べたように,プロテスタンティズムは自身の内に,「原罪」ともいえる無限の欲求を発見し,それを発見することと同時にその欲求を統治すべき自由意志をもった主体を生みだした.これに対してガルブレイスは,消費社会を,欲求を喚起させる「色欲」(外から引き起こされる欲望) のようなものとして記述する.そしてそれと同時に自身の内に〈自然な欲求〉を発見した.こうした発見は,あたかも「禁欲苦行」であるかのような自己統治 (倫理) と,企業への抵抗や消費者の啓蒙といった他者への働きかけ (権力) を生むものとして機能することになる.


3. ボードリヤール『消費社会の神話と構造』:ガルブレイスの二分法を越えて

 しかしながら,消費社会とは同時に,個人や人間の観念がゆらいでいく社会でもあった.それを早くに感知していたのはリースマンである[Riesman,1950].彼は消費の領域の拡大を心理学と結びつけることで,「個人」の変容を論じていた.このように〈消費の領域の拡大〉とは,その初期においてから,「個人」という考え方を根本から揺るがすようなものとして捉えられてきたのだ.

 そして,70年代末から80年代にかけては,「ポストモダン」がデリダの「脱構築主義」の異名としてアメリカに逆輸入されることになる[藤本,2001].こうしたポストモダン論は,西洋的な人間観に大きなインパクトを与えることになった.そこで消費社会論の寵児としてアメリカ社会で大々的に受容されたのが,ボードリヤールの消費社会論である.

 では,ボードリヤールの消費社会論はなにを明らかにしたのか.それはボードリヤールのガルブレイス批判を追うことで明らかになる.ボードリヤールはガルブレイスの疎外論を空想的であると批判した.なぜなら「消費者に固有な欲求の充足という点から見ても,やはりどこまでが『作為』かという境界線を引くことはできない」のであり,またガルブレイスの疎外論は「個人をシステムのまったくの受動的な犠牲者」にしてしまうからである[Baudrillard,1970=1995:87-8].そしてボードリヤールは次のように述べる.「欲求はシステムの要素として生み出されるのであり,個人とモノの関係として生み出されるのではない」[8].疎外論者は「人間とモノとの関係や人間と自己との関係がごまかされ,あいまいにされ,操作されていることを ―モノと同じようにしてこの神話自身を消費しながら― 示そうとやっきになっている」が,それは前提の部分 (自由で意識的な主体という前提) からして,「神話」なのである[同上:91].

 ボードリヤールが欲求を「システムの要素」としていることからもわかるように,それはガルブレイスの「依存効果」の全面的な否定ではない.彼が否定したのは,ガルブレイスが前提とする欲求の二分法であった.ボードリヤールは〈自然な欲求〉という前提を切り崩したのである.肯定的に評価すれば,これは〈消費の領域の増大〉をいたずらに嘆くような考え方 (そして,いつか自由で意識的な主体が復活するだろうという虚しい希望を持ち続けること) を改めることにつながる.しかしそれは同時に〈自然な欲求〉という準拠点を「神話」だと告発し,〈自己統治の不可能性〉を突きつけることでもあった.

 〈自己統治の不可能性〉とはなにか.たとえば「我々の自然な欲求が疎外されている!」という主張が可能であれば,それはそのまま消費社会への抵抗につながる (「あの企業が自然な欲求を疎外している!」).だが,その抵抗のための準拠点が失われた場合は,「禁欲」を唱えることも不可能になる.なにを目標に,どれほどの禁欲をすればいいのかを一般的に論じることが不可能になるからだ.

 では,ガルブレイスを部分的に批判したうえで,ボードリヤールはどのような消費者観を提示したのか.それは,ガルブレイスが想定するようなシステムの受動的な「被害者」としての消費者ではない.システムに主体的に従属する存在であった.この消費者観の差異を,プロテスタンティズムに対する両者の見解の違いから確認しておこう.疎外論者は,今日人々がプロテスタント的倫理を失ってしまったと嘆いている.欲望にしたがってモノを消費する消費者は,節制の倫理を失ってしまっているというわけである.ここでは〈自発的な欲求 / 他発的な欲求〉の二分法に従いながら節制を行うことによって,主体性が回復可能であると想定されている.しかし,ボードリヤールはこれとはまったく反対の主張を行う.彼によれば,今日の消費現象はプロテスタント的倫理の延長にある.プロテスタント的倫理は「個人の『私的』領域 (欲求,感情,渇望,衝動) を生産力として余すところなく統合すること」を求めたが,今日の消費はその倫理が拡大した先に位置づけられるというのである[同上:92].現代人は「自分自身の欲求と安楽の絶えざる生産と改良にかける」多くの時間をもっている[同上:99].「彼はいつでも自分のあらゆる潜在力,あらゆる消費能力を動員するよう心がけなければならないのである.(…) だから,現代人が[自己統治を失って]受動的だというのは正しくない.彼は常に活動しているし活動的でなければならない.(…) 遊ぶこと,自分をしびれさせ,楽しませ,満足させてくれるあらゆる可能性を徹底的に開拓することが強いられるのである」[同上:100].消費者は,自己の内面を隅々まで探索し動員して,消費を通じて徹底的に幸福を追求することを強いられている.

 ボードリヤールによれば,このような〈能動的で主体的な消費者〉になるための社会的訓練が,20世紀における労働者の訓練の延長上に,今日盛んに行われている[同上:102].消費者は産業システムの一要素として必要となる,能動的に消費を行う消費者へと規律・訓練されていく.システムに主体的に従属する存在となるのだ.

 こうしたボードリヤールの立場は,ガルブレイスよりもある意味で徹底している.ここではガルブレイスら疎外論者の想定した,「自由で意識的な主体」の再登場というハッピーエンドはありえない.むしろ人々は,「自由で意識的な主体」として,能動的に生産システムに従事しているのであり,そこには空虚だが永続する幸福のみがある.ボードリヤールの視座においては,消費社会への抵抗の手立ては完全に絶たれている.ボードリヤールの論調がしばしばペシミスティックなものになるのも,彼が抵抗の手立てを論じることができないということによるのだろう.

 まとめておこう.ボードリヤールはガルブレイスが前提としていた〈自然な欲求〉という観念を否定した.彼は欲求の二分法を崩壊させたのである.それは同時に「禁欲」の準拠点の消失でもあり,消費者はそこで消費社会に抵抗する術を失う.


Ⅲ 結論

 ガルブレイスの消費社会論は,他者によって喚起される〈他発的で不自然で過剰な欲求〉を認識の対象として生み出し,同時に自己の内なる〈自然な欲求〉という概念を生みだした.そうした欲求の二分法によって,消費者は〈自然な欲求〉を準拠点に,日々の購買のなかで欲望の統治を行うことが可能になる.逆説的だが,その禁欲行動こそ,まさに自己の内に欲求を発見していくプロセスなのである.ガルブレイス的消費者は,日々の実践において自己を省みることで,自己の内に〈自発的な / 他発的な〉欲求を発見していくのだ.

 そしてボードリヤールはそうした欲求の二分法そのものを崩壊させ,ガルブレイスが前提としていた人間観を相対化した.その相対化は同時に,ガルブレイスによる欲求認識のメソッド (欲求の二元論) を解体し,抵抗の準拠点を喪失させる.ここにおいて消費社会における人間の自己統治の可能性は絶たれたのである.

 本稿が明らかにしたのは,①〈消費の領域の拡大〉に伴う新しい人間・欲求の発見と喪失,② 自己統治の可能性とその方法論の解体,以上2つの過程である.消費社会論とは現代社会の変化を学術的に記述したものでありながら,同時に「人間とはなにか」「主体とはなにか」という問いと大きく関係した社会論であった.

 最後に,今後に残された課題をまとめておく.本稿では社会科学を扱い,そこでどのように人間が観察されていたのかを明らかにした.次に求められる作業は,(フーコーにならって) 社会科学史と社会史の裂け目を埋めること,人々が消費社会言説をどのように利用して世界と自己を再解釈・再構築したのかを明らかにすることである.本稿で確認したガルブレイスによる欲求の二元論が,人々の実践をどのように規定したのか.人々はこの観察視点を利用しながらどのように他者に働きかけ,どのような自己統治実践を行ったのか.

 このような作業によって,消費というパラダイムの登場が,人びとと社会をどのように変化させたのか (こうしたパラダイムを人びとがどのように利用し,社会・人びとをつくりかえていったのか),「消費」という視点に則った新しい道徳は,どのような新しい道徳実践と新しい存在の仕方を生みだしたのか (「消費」への注目はどのように人々を変えたのか) という大きな問いに接近していきたい.


《参考・参照文献》

Baudrillard,J. 1970 La societe de consummation : ses mythes, ses structures. Gallimard. (今村仁司・塚原史訳1979『消費社会の神話と構造』 紀伊国屋書店.)

Foucault,M. 1966 Les mots et les choses. Gallimard.

―――――  1974 “A verdade e as formas juridicas”. In Cadernos da P.U.C. ,pp5-133. (西谷修訳 2000 「真理と裁判形態」 蓮實重彦・渡辺守章監修 『ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 権力・処罰』 筑摩書房.)

―――――  1984 L’usage des plaisirs. Gallimard.(田村俶訳1986『性の歴史第2 快楽の活用』 新曜社.)

―――――  1988 Technologies of the Self: A Seminar With Michel Foucault. University of Massachusetts Press. (田村俶ほか訳2004 『自己のテクノロジー』 岩波現代文庫.)

藤村一勇 2001 「ポストモダニズムの光と影」 in 『現代思想』2001年11号 青土社.

Galbraith,J. 1958[1998] THE AFFLUENT SOCIETY, New Edition. Houghton Mifflin Company.(鈴木哲太郎訳 2006 『ゆたかな社会 決定版』 岩波現代文庫.)

Gergen,K. 1999An Invitation to Social Construction. (東村知子訳 2004 『あなたへの社会構成主義』 ナカニシヤ出版.)

中村達也 2012 『ガルブレイスを読む』 岩波書店.

Riesman,D. 1950 The Lonely Crowd: A Study of Changing American Character. Yale University Press.

佐藤俊樹 1993 『近代・組織・資本主義 日本と西洋における近代の地平』 ミネルヴァ書房.

―――― 1996[2006] 『ノイマンの夢・近代の欲望―情報化社会を解体する』 講談社. (『社会は情報化の夢を見る―[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望』 河出文庫.)

内田隆三 1987 『消費社会と権力』 岩波書店.

――――― 1996 「消費社会の問題構成」 井上俊ほか編 『岩波講座 現代社会学〈21〉 デザイン・モード・ファッション』 岩波書店.


([1]はなし。)

[2] ウェーバーが見いだしたのは,「資本計算原理という経営体の合理性が個人の経済的欲望の禁止によって実現する」という逆説であった[佐藤,1993:47].とはいえ,なぜこのような逆説が可能になったのかは本論の趣旨ではないため,省略する.

[3] 佐藤をここで扱ったのは,① フーコー『性の歴史』を意識した生産者分析を入れることで,続く消費者分析へと話を進めやすくしようとしたため,② そしてガルブレイスとボードリヤールとの間にあるプロテスタンティズムについての認識の差異を後に扱うことで,ボードリヤールの立場をわかりやすくしようとしたためである.…が,どちらの試みも成功したとは言いがたい.

[4] ガルブレイスの欲求―権力論の内容も,もちろん時代時代の経済状況に応じるような形で変化している[中村,2012].しかしここでは彼の代表的著書であり絶大な影響力をもった『ゆたかな社会』[Galbraith,1958[1998]=2006]を扱うことにする.

[5] ガルブレイスはあまり自覚的ではないようだが,「依存効果」は実は二つの要素を持つ.まず,ガルブレイスは依存効果を次のように説明している[同上:206-7].

① 欲求が,欲求を満足させる過程に依存してしまう

② 欲求が生産に依存してしまう

このように説明したうえで,定義する際には①の説明を採用しながらも[同上:207],②の説明を度々持ち出すことで生産の増大を批判していく.しかし,①②は必ずしも一致するものではない.後にボードリヤールが指摘するように,「消費者同士の見栄張り競争」は,必ずしも生産の過程が引き起こすものではないためである.したがって,依存効果は①②の二つの要素を含んだ概念であるといえる.そして,依存効果を理由に生産の拡大のみを批判していくガルブレイスの論展開は,①の要素を断りなく捨象しているという点で不十分なものであったといえよう.

[6] ガルブレイスによれば,既存の経済学は人々の欲求を与件とし,この内容や創出過程を考慮することはなかった.経済学者は〈生産によっていかに欲求を充足するか〉を追求することのみを任務としてきたのだという[Galbraith,1958[1998]=2006:187-8].経済学史を振り返ってみても,アダム・スミス,マルサス,リカード,そしてリカードを引き継ぐマルクスにせよ,大衆の窮乏,不平等,人間が永遠に餓死線上に生きることを前提としていた[同上:43,45,55,109].これに対してガルブレイスは,大衆の窮乏や不平等が大きな問題とされなくなった「豊かな社会」として現代を捉えることで,既存の経済学の一元的な欲求観を問いなおしたのである.「豊かな社会」においては,ただ欲求を充足させることのみを任務とすることはできない.欲求の質が問題になるのだ.

[7] 例えば現在日本で行われている「消費者教育」はこのガルブレイスの考え方に影響を受けていると推測される (*この具体的な関係を明らかにすることは今後の課題だが).企業から疎外される〈自然な欲求〉というものを,教育を構築する際の準拠点の一つにしてきたのである.このような,ガルブレイス的教育に則って人間 (消費者) を形成していく過程は,ある種の人々が自身のなかに〈自然な欲求〉を発見していく過程であり,また教育を通じて児童・生徒たちにそれを発見させていく過程でもある.

[8] ガルブレイスの依存効果論は〈財の生産と同時に,生産者がそれを受け入れさせるためのあらゆる提案・手段を生み出している,つまり財やサーヴィスに対応する欲求を,生産が生産しているのだ〉という主張である.しかし,ボードリヤールによれば「ここには心理学的な意味での重大な陥穽がある」.ガルブレイスは欲求をモノとの関係においてあらかじめ特殊化してしまっている.「あれこれのモノに対応する欲求しか」想定していないのである[Baudrillard,1970=1995:89].だから,欲求はあれこれのモノに対して生まれ,そのモノを手に入れれば満たされるということになる.しかし,ボードリヤールによれば欲求とは「モノへの欲求」ではなく「差異への欲求 (社会的な意味への欲望)」である.したがって完全な満足などというものは存在しない[同上:94-5].欲求を生み出すのは企業だけではない.産業システムを含めた社会全体が,欲求を創出しているのだ.



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