なぜ人は笑うのか / 笑いとはどのような行為か。


 演劇を見ていて、時折不思議に思うことがある。生で劇を鑑賞しているときに、私は特定のシーンで (ほかの観客と同じように) 笑う。しかし、映像化された同じ劇を見ても、劇場で笑うのと同じようには笑えないのである。生で見たときは確かに笑えたものが、一人で見るときには笑えなくなる。少なくとも、一人で見ているときの「クスクス笑うような」笑いと、劇鑑賞中の観客の笑いは、どこか異なる質を持っている。もう少し一般的な話として、劇鑑賞における笑いと映画鑑賞における笑いの質の違いを考えてみても良いかもしれない。劇を鑑賞するとき、観客は声を上げ、ときに手を叩き、笑いの感情を大いに表現する。しかし、映画の鑑賞中は、あの「クスクス」とした笑いに近い笑いが起きる。もし大きな笑い声が「映画鑑賞の邪魔になるからマナー違反だ」というならば、演劇における笑いもまた同様に制御されなければならないはずだ。では、この違いはどういった理由から生まれてくるのであろうか。
 本記事において私は、「笑いとは “理解” を示すものである」ということを論じたいと思っている。劇鑑賞中に、人は笑う。笑うことで人は、「自分は今のシーンが笑うべき内容だと理解している」ということを、演者に対して示すのである。順を追って話をしていこう。


 第一に、笑いとは多くの場合特定の場に関する理解を前提とする。笑えるためには、場の文脈を理解している必要がある。というのも、第二に、(愛想笑いといったものを除いて) 笑いとは場の文脈から逸脱することにおいて起きるものであるからだ。人は、ある場において何が適切な行為・言動であるかを理解しており、そうであるからこそある出来事を笑えるものとして認識することができる。文脈という言葉が曖昧に感じるならば、予期と言い換えても良い。「この場において次に一般に起こりうる反応 / 続きうる言動」についての予期からずれた反応/言動が登場した際に、人は笑う (あるいは顔をしかめる) のである。一見ほとんど意味を持たぬ「不条理、ナンセンスへの笑い」についても同様で、それが「不条理・ナンセンス」であると認識できねば、人は笑うことはできない 。例えば、見知らぬ部族の族長と出会ったとする。その族長が何か私にとって突飛な行動をとったとしても、私はその行動を笑うべきものなのかどうか判断することはできない。その突飛な行動は、もしかすると最上位の敬意を表す挨拶であるのかもしれない。そうした可能性を私は頭から排除することができないのである。(そして、笑いが予期からの逸脱である以上、ある人にとっての「笑えるもの」は、その他の人には「不愉快で、その場にあってはならない、許しがたい表現」でもありえる。いずれも予期への逸脱から成立する / それが逸脱であることを表現するものであり、その点において笑うことと顔をしかめることは同機能である)。

 そして第三に、笑いとは、(自己の理解を前提として成立しながらも) 他者に対して「自身の理解」を示してしまうものである。私が笑ったことは他者において観察され、そこにおいて私は (本意にせよ不本意にせよ) 「私の理解」を他者に伝達してしまうのである。そうであるからこそ、我々は「笑うべきではないところ」(例えば葬式の最中) などにおいて自身の笑いをかみ殺そうと努力する。そこにおいて笑うことは、「私は葬式という場で一般に予期される態度というものを理解していない」といったことを相手に伝達してしまう可能性を含んでいる。
 そして第四に、劇場における笑いは、一人の人間によってつくられるものではない。その場にいるほとんどの人間によって同時に発せられ、そのようにして成立しているものである (ある劇の鑑賞中に一人の観客が突然大声で笑ったとしても、それは適切な笑いではなく、ただの顔をしかめるべき逸脱としてしか感知されない。すなわち、そのような場面おいては、「劇場における笑い」と呼ぶべきようなものは成立していないのである)。そして、集団で成立する笑いも、やはり「私は目の前で起きていることを理解している」ということを示すものである。だからこそ、ときに我々は自分が目の前で演じられているシーンを理解できなくとも、他の観客にあわせて笑うのである。この、「理解していないのに、笑ってしまう」という反応は、これまで書いてきたこととは真逆のものに見えるかもしれない。しかし、「笑えない」ことは「私はわかっていない」ということを他者に示してしまう。それゆえに、観客は、少しわからないような内容であったとしても、笑顔を見せるのである (落語などを鑑賞する場においてこうした笑いをする人が多いことは容易に予想できる)。ときに「理解できない」にもかかわらず、ときに「ややひねったギャグだが、自分は理解して笑うことができる」ということに優越感を抱きつつ、人は人ともに笑い、それを人に対して提示するのだ。

 第五に、演者はその反応によって劇を改良していくのであり、その点で観客の笑いは演者に対して示されている。笑いという反応は、演者にとっては観客が自身の意図通りに内容を理解しているかを測るための重要な指標となる。もし自身の意図した場面で観客が笑わなかったら、それどころか顔をしかめたとしたら、それは自身の意図とずれる形で劇が理解されているということになろう。逆に、笑ってほしくはないシーンで笑いが起こった場合、劇の内容が真剣なものとして観客に伝わっていないと感じられるかもしれない。観客の側も、自身の笑いが演者に伝わるということを意識して笑う。だからこそ、劇鑑賞には独特の緊張感が漂う。そのシーンは笑うべきものなのか、息をのむべきものなのか。何が笑うべき逸脱で、何が真剣に受け止めるべき逸脱なのか。映画鑑賞の笑いにおいても、他者に対して理解が示されることはある。例えば、映画でほかの映画のパロディが登場したとき (『帰ってきたヒトラー』などをみているとき)、人はクスクスと笑うことで「それをパロディだと理解している」ということを示し、そうすることで「パロディだと理解して笑うことができる」という一種のステータスを享受するのである。しかし、映画と劇を比較する際の重要は違いは、劇は観客の笑いを、自身を構成する要素としているということである。まさしく演劇とは、「観客と作り上げていくもの」なのであり、それゆえに観客にもある種のプレッシャーを、あるいはそのプレッシャーがあるがゆえに「自分が参与しているという充実感」を与えてくれるのである。


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