西阪仰『相互行為分析という視点 文化と心の社会学的記述』1章 (まとめ)


1章 相互行為分析という方法


 社会成員自身にとっての社会秩序に近づくための方法として本書が提案するのが、「(相互行為を隠れた条件・根拠などから) 説明すること」の放棄である (:34)。本書は徹底して「ある相互行為の秩序が、相互行為の具体的進行のなかで、またその具体的進行をとおして、その時々の相互行為上の偶然的条件に依存しながら、いかに組織されているのか」の記述を行う (:35)。


 
◎ 1節 観察可能性の秩序

「相互行為において何が行われているか、さらに相互行為に参与している当人たちが自分たちのふるまいにどのような理由付けをあたえているかは、直接観察可能である」(:38)。


 p.38のトランスクリプトについて
 ・Crの「うー」は、今自分が話すべきタイミングであること、それがわかったうえでしかし話せない事情があるのだということを、観察可能にしている。反射的な表現であっても、相手に聞かせるために行われている (p.39)。
 ・CdはCrの発言に笑いを重ねている。これは、Crが発言できずにいる原因を自分自身承知しているということを観察可能にし、そうすることで自身が引き起こした会話のトラブルに対処している (:41)。


 このとき、CrやCdが「ほんとうのところどう思ったのか」は社会学的記述にとってはどうでもよい。そこで成立している秩序は、CrとCdの「あいだ」に投げ出されている事態のなかにある。


◎ 2節 社会秩序の局所的な達成

 相互行為の進行は、「ふるまいがそのつど観察可能にされる意味もしくは理由説明 (アカウント) によって貼り合わされていくところに、成立する」(:42)。電話を例にしよう。突然電話をかけるときには、その理由 (ないし理由の不在) を説明する必要が生じる。そうすることで、電話における相互行為が成立・進行するのである。コミュニケーションのチャンネルが開かれるときには、そのように「当事者による理由づけ」がなされる (:44)。そして、それは観察可能である (:45 フライトアテンダントの例)。

 自身にどのようなカテゴリーを付与するかも、このような相互行為の進行に埋め込まれている。私が「男」「中年」「日本人」「夫」「父」といったカテゴリーのうちどれを自身に付与するかは (たとえそれぞれのカテゴリーが真であったとしても)「そのつどわたしが参与している場面設定がどのように局所的に組織されているか」による (:46)。

 なお、このような記述に対して、やはり「隠れた」ものの影響を指摘することはできる。例えば、p.38のトランスクリプトにおける「沈黙」は意図的に挿入されたものであった。しかし重要なのは、事実として沈黙があったことそれ自体ではなく (事実の水準ではなく)、それにどのような理由説明が行われるのか (という判断の水準) である (:47)。それこそが社会的に有意味な事柄であろう。


◎ 3節 規則にしたがうこと

 さて、何が観察可能になっているかを記述する際には、「一般的に期待されていることがらに言及せずにやっていくことは、おそらく不可能である」(:51)。応答の不在も、一般的な期待があるからこそ観察可能となる。それは一般的なものなので当該相互行為を越え出ているし、我々の行為を支配している。しかし、超越的な何かとして相互行為を拘束・限定しているわけではない (:52)。

 実践のなかの規則:ウィトゲンシュタインの足算規則の例から、クリプキは規則が無限の事例を含むこと、それゆえに、有限回目の具体的なふるまいがある規則にしたがってなされたという事実は成立しえないこと、したがって「ある行為が規則にしたがってなされた」ことは「他者による阻止がなされないこと」によってしか観察できないことを導き出した。このようにしてクリプキは規則の存在を否定してしまうのだが、実際のふるまいが規則に制限されないことは、ただちに規則が存在しないことを意味するわけではない (:55-6)。ウィトゲンシュタインが注意を向けさせるのは、「解釈」ではないような規則の把握である。規則の適用に際し、解釈が必要とされるのは特別な場面においてであり、こうした特殊例を議論の基礎に据えることはできない。規則に従うことは、規則を解釈することとは別である。重要なのは、規則の解釈ではなく「実践」なのだ (:57)。クリプキは初めに規則を現実の外にある理想的なものとして仮定したが、その点で根本的に誤っているのである。
 さて、かつてグッディンは相互行為における規則を次のように定式化した。「話し手が受け手に視線を向けたとき、視線を向けられたその受け手は話し手のほうに視線を向けていなければならない」(:59)。この規則が守られない場面は度々ある。重要なのは、「そのとき話し手と受け手はどうするか」である。話し手はことばを途切れさせたりすることで、「通常でないこと」が起きていることを有標化する。受け手は視線を戻して「通常の状態」を回復し、話し手はそれを確認して発言を再開する。このようにして、「違反」「逸脱」は「当人たちによりマークされている」のである (:60)。参与者たちは、このようにして規則を知っている。その知識は、規則にしたがってふるまうということのうちにある (:61)。

 規則の先与性:以上のように規則と行為が内的な関係にあるとすると、規則が実際の行為に先立って与えられているという想定も否定されてしまうのだろうか。いや、命題が経験に応じて変更されたりせずに、経験のための「プログラム」「背景」となっていることはある (:67-8 カリフォルニアの雨の例)。また、ウィトゲンシュタインの例示するように、ある命題が経験を整序する働きをしつつも、その命題自体は真偽の検証を免れることもある (:67)。相互行為における規則も、そのように「ア・プリオリ」に妥当することがありえる (:69)。


◎ 4節 「経験的研究」としての相互行為分析

 以上のような先与性を認めたとして、何が規則として当該相互行為を支配しているかはそれ自体経験的な問題であり、個々の事例にそくして観察されなければならない。しかし、その事例を一般化する必要もない。ある事柄が「違反」として志向されているならば、そこからそこで志向されている規則は解明することができる (:70)。電話のかけてから「Hello」というとき、それは応答の「不在」に対する対処となっている。そして、そのことによってまさに、応答の不在が観察可能となる (:70-1)。このようにして1つの逸脱例から、人々はどのような規則を背景にして何をしているのかを解明することもできる (:72)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?