ルーマン『リスクの社会学』2章 メモ。


 2章 リスクとしての未来

 〈事前 / 事後〉の差異を統一的なもの (時間) として認識するために、旧ヨーロッパでは運動の概念を用いていた (:50)。〈運動している / いない〉〈変化しうる / しえない〉〈瞬間 / 永遠〉。近代社会は時間ゼマンティクをいまなおこの形式で呈示できるか?〘*リスク概念への注目は、全体社会の変動に対応しているのではないか?この章ではリスク概念が時間とどのように関わるのかを見ていくことで、今日の全体社会が時間をどう処理しているかを見ていく。〙

 すべての時間表象にはパラドクス性がある。全てのものは同時に生起する (たとえばシステムと環境など) にもかかわらず (:51-52)、区別の作動には時間が必要 (=非同時的) なのだ (:53)。このパラドクスをいかに展開するかにおいて、さまざまな時間表象が存在している (:54)。では、近代の時間表象とはどのようなものか?

 18世紀以降、時間の観察は神が永遠において行うものではなく、人間が現在において行うものになった (:57)。そこから、観察は〈過去 / 未来〉の相違を先鋭化させていく。では、このとき「現在」はどこに位置づくのか。それは観察位置として (=観察者にとっての盲点として)、把握されなければならない (:59)。

 リスク概念も、現在から〈過去 / 未来〉を観察するものである。そして、〘*近代では人は現在の視点から観察をする。過去のことを考えるときも、未来のことを考えるときも、過去の現在、未来の現在から観察する。同様に、〙 リスクに対する評価も時間地平のなかに映し出される。〘*損害が発生してしまったとする。そのときにはもう、過去の現在においてなぜリスキーな / ではない選択をしたのかはその決定を行ったときのままの形では理解されなくなるだろう。事後的に評価が変わってしまうのである。同様に、現在の決定を促すリスク状況は、未来の現在から見れば違った形で評価されることもあるだろう〙。「リスク評価が時間とともに変化することが、リスクのリスクたるゆえんなのである」(:60)。

 だが、現在における制限が「所与性」ではなく「リスク」として把握されるのは一体なぜなのだろう。近代に移行するにつれて決定への依存性が増大してきたためである。たとえば「病気は、いつおそってくるかわからない危険から、生活様式を結びついたリスクへと変化する」〘*ただし、ここについては注もちゃんと読んだほうが良い〙(:62)。ファーストオーダーの観察の水準においては、決定によって過去と未来の差異が生み出されると把握されている。セカンドオーダーの観察者も「決定への帰属によって過去と未来との差異が可視化されている」と見ている (:65)。

 19世紀、20世紀には、(1) 未来を知ることができないという時間的次元の未規定性と (2) 新しい全体社会の構造を記述できないという社会的次元の未規定性が共生し、未来を「蓋然性」というメディアにおいてのみ知覚可能なものとしていた (:66)。「進歩」「進化」などのゼマンティクはこれに対応している。そして確率はそのために現在の決定の根拠を見出そうと努力してきたのだ。

 しかし、決定の根拠を見出すというその機能の点で、その試みは失敗する。「1200万年に一度しか原子力発電所は爆発しないと知られている場合ですら、その爆発は明日起こるかもしれない」(:67) のだから、計算は決定の根拠にはなれない。

 さて、「進歩」「進化」などの言葉に特徴づけられる19世紀、20世紀の世界の統一性は、先述のとおり時間的次元と社会的次元の同盟によって可能になっていた。この同盟は今日でもやっていけるのだろうか?





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