山田昌弘『迷走する家族』(2005) Ⅰ部 メモ


 Ⅰ部読んだ時点でのとりあえずメモ。

 問いの立て方がわかりやすい。[本文中ではここまで明示的に述べられていなかった気もするが、多少大胆に再解釈すると]家族がどのような機能を期待されているかを明らかにし、実態がその期待からずれている場合に問題が観察されるとする。そのように論を設定したうえで、期待を「社会的機能」「個人的機能」「価値意識」から観察。こうして、現在家族にどのような期待があり、そことのズレからどのような問題が語られているのかを区別・細分化していく。

 ただし、実際には「社会的機能」は政治との関わりでその期待される機能がある程度わかるが、「個人的機能」については主観的に決められる=期待される機能がバラバラになってしまっている=問題がなにかを簡単には述べられない といったことが書かれている。

(*一章注1には構造機能主義をベースにするとあり、構築主義から見れば「きわめて素朴に見えることだろう」とへりくだっているけれど、実際には構築主義的な視点に十分気配りされているように読める。[というか「構造機能主義をベースにしている」といえるほど構造機能主義っぽくないように感じたのだけど、おれが構造機能主義をちゃんと理解してないってことかな?]。一度ほぼ完成したものを大きく書き換えたともあったので、元はもっと構造機能主義よりだったのかも。)

 なお、期待からのズレから問題が観察されるとする場合、「期待しているものを家族が担うことができない」というパターンのほかに「期待していないのに無理やり担わされてしまう」というパターンがあると考えられる (そして多くの論争ではその両軸から主張と派閥が形成されているように見える[=期待される機能がそれぞれ異なるのだから、観察される問題もそれぞれ異なるのであり、その間で論争の対立軸が形成される場合が多いように見える]) が、ほとんど前者にフォーカスされていて後者についてはまだあまり触れられていない。一応、「価値基準」が他者への「押しつけ」になることは述べられているが、家族が期待以上の「機能」を担ってしまっている可能性などについては触れられてなかったような気がする。

 というか、〈社会的機能〉と〈個人的機能〉は区別されているのに、〈社会からの期待〉と〈個人からの期待〉は明示的には区別されていない? 〈社会からの期待〉が〈家族の社会的機能〉である /〈個人からの期待〉が〈家族の個人的機能〉であるとは語られるが、たとえば〈社会からの期待〉と〈個人からの期待〉とのズレ (≒〈社会からの期待〉と〈家族の個人的機能〉とのズレ) などには注目されない? これ、期待が「政治」にわりと容易に反映されるかのように書かれていることも記述に影響を与えているだろうか。あるいはここらへんのズレが「構造機能主義」という言葉の下で等閑視されているのだろうか。

 あと「価値意識」については、それが「社会的機能」「個人的機能」の衣をかぶっていることが多いということが指摘されている。この指摘、おもしろいし参考になるので素直に感心したんだけど、じゃあ「価値基準」と「個人的機能(とくに情緒関係の)」を分けるものは一体なんなのかという問いを誘う。「分析的に区別する」という言葉がどこか他の場所で使われてた気もするけど、その場合もやはりどう分析にあたって区別したのかが気になるところ。

 あ、加えて、ちょっと細かいところだけど、「経済的に豊かな社会を実現したのにもかかわらず、豊かさを実感できない日本」(1996年『国民生活白書』) というのが「今、日本経済が直面している問題」であるとされているけど (:84)、実は同じ問いは70年代の国民生活審議会から繰り返し提出されてた。使われている理屈まで同じだったので、まったく同じ問いが繰り返されていると見てよいと思う。

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