「死ななくても良い理由」。


 「死ななくても良い理由」という言葉がよぎったので、これについて考えてみる。

 とはいっても、「死ななくても良い理由」は何か (どのような理由があるか) を問うのではない。「死ななくても良い理由」を問うこととは何か、を問う。理由そのものを探すのではなく、そもそもここで問われているものは何なのかを問う。

 この作業を通じて、この問い自体が「死」を選択しやすくするものであるということを指摘したい。それを通じてさらに、「死」を問うとはどのようなことなのかに、間接的に触れたい。そのように回り道をしながら、「死ななくても良い理由」を語りうるかについて考えたい。ただし、まだ何を書くか、何を自分が書きうるのかもわからないまま書き始めているので、ここで述べていることは予定というか、ただの直感でしかない。

 何を書くかもどこへ行き着くかも決めてはいないが、とりあえずは書いてみる。まずは、問いを分析・変換・区別することから始めてみよう。


(1) まず、死と生の区別をしておこう。

〈生 / 死〉 (疑問①:生→死への変換、死→生への変換は同負荷か。)


(2) 同様に、「死ななくても良い理由」の「死ななくても良い」の部分は次のような区別の一方だとする。

〈生きなくても良い / 死ななくても良い〉


(3) これをわかりやすい言い方に変換し、そもそも「死ななくても良い」という部分で何が問われているのかを明確にしておこう。

〈生きなくても良い=死んで良い / 死ななくても良い=生きて良い〉

 (疑問②:「生きなくても良い」→「死んで良い」への変換、「死ななくても良い」→「生きて良い」への変換は同負荷か。)


(4) ここまでの作業で、「死ななくても良い理由」を問うときに、なにが前提になっているかが一つ明らかになる。

〈死んで良い=生き続けることが前提 / 生きて良い=死ぬことが前提〉

 (疑問への考察:このように、死ぬことが前提となっている以上、「死ななくても良い理由」を探すのは難しい。生は死へと向かうことが定められているからだ。(この次元では、) 生→死への変換は容易でも、死→生への変換は不可能である。したがって、それに抗うような形式を持つ問いに答えることは非常に困難であると考えられる。

 むろん、「生きとし生けるものがみな死ぬ」というときの「死が前提となっている」と、「死ななくても良い理由」を問うときの「死が前提となっている」とでは意味が異なる。後述するように、後者は「許し」を含むので、〈皆いつかは死ぬ / 許されなければ死ぬ (しかない)〉という区別になる。前者は条件なしに妥当 (「みんなは~」)、後者は条件付きで妥当 (「~れば」) なので、同じ内容ではない。

 しかし、この区別が侵蝕されてしまうということにも注意しなければならない。〈皆いつかは死ぬ〉は、〈許されなければ死ぬ〉を侵蝕し、覆うことができる。〈皆いつかは死ぬ∋許されなければ死ぬ (しかない)〉。これは何を意味するだろうか? 死を選ぶことは容易だということ、これだ。〈許されなければ死ぬ (しかない)〉ときに、問題となるのは「許される」「許されない」の部分であるはずだ。しかしながら、「死ぬ (しかない)」に「いつかは死ぬ」ということが覆いかぶさり、そちらに重心が移ることによって、「死ぬ (しかない)」に結びついた「許されない」の部分もまた重みを得てしまう。〈許される / 許されない〉のうち、後者がマークされてしまう。

 疑問③:元は〈~れば、~しかない〉(許されなければ死ぬしかない) という形式の文だったのだから、このような事態においては因果関係がねじれている。したがって起こり得ないのか?

 起こり得ないことはないようにも思える。むしろ我々は日頃こうした誤認を多くし、またその誤認によって支えられている。私が何かでたまたま成功したとする。私はそのたまたまの成功を、「あのときあのように決定していたからいま成功したのだ」と自分で納得することがある。「偶発的な成功」が、「決定と成功の因果関係」になってしまう。そして、〈決定すれば、成功する〉ということが導かれる。こういう例はいくらでも挙げることが出来る。だから、人間は因果関係というものをそれほど正しくは認識できていないように思える。

 しかし、この例が先に指摘した「因果関係のねじれ」の話とはズレていることもまた理解している。この例では「成功が偶発的であるにもかかわらず、因果関係が想定されてしまう」というところに焦点があるが、先程までの問いは「いつかは死ぬ、だから私は許されていないと結論しやすい」ということがありうるのかということを問うていたはずだ。だから、違うのだろうか?)


(5) (4)で指摘した前提を明記したうえで問いを表現すると、次のようになる。

〈生き続けることが前提=それでも、生きなくても「良い」とされるのはどのような状況か / 死ぬことが前提=それでも、死ななくても「良い」とされるのはどのような状況か〉

(*なお、「死ぬことが前提」とあるが、正確には「死を選ぶことが前提」であろう。)

 迂回して一番はじめの問いの形式に戻った。しかし、迂回することで、ここでは「死ぬ」ことから、「良い」という判断へと焦点を移している。



(6) 〈生き続けること / 死ぬこと〉が前提となっていることを踏まえると、ここでの「良い」とは「許すこと」である。〈死を選ぶことが許されるのはどのような状況か / 生き続けることが許されるのはどのような状況か〉が問われているのだ。


(7) 「許される」に〈自己 / 他者〉の区別を導入しておこう。〈自己 (を) 許す / 他者 (から) 許される〉。これでいいのだろうか。

 いや、この区別は (〈自己 / 他者〉の区別を導入してはいるが) 自己の視点から為されたものである。この点には注意がいる。どちらも言い換えれば〈私が許す / 私が許される〉というものになっているのだ。しかしながら、実際の問いには、そもそも〈他者 (が) 許す〉とはどのような事態なのか (私は他者からどのようにして許されるのか) という問いが混ざり込んでいる。

 だから、より明確な区別は、〈自己 (を) 許す / 他者 (が) 許す〉というものではないか。すると、次の問いが生まれる。そもそも〈他者 (が) (私を) 許す〉とはどのような事態なのか。私が「他者から許される」ものであるならば、私もまた、「他者を許す」ものであるはずだ。〈他者 / 私〉という区別んいよる変換を経ると、〈私 (が)(他者を) 許す〉。こうなるはずだ。だから私は、「他者を許す」ということを実践している、のだろうか? そして、その実践から類推して私は、「他者が私を許す」かどうかを知りうるのだろうか。

 しかし、〈他者〉と〈私〉は交換可能ではない。ここにも非対称性が存在している。したがって、問いにかかる負荷も異なる。〈他者 (が)(私を) 許す〉かどうかは答えにくくそれゆえに問題となりやすいが、〈私 (が)(他者を) 許す〉かどうかは答えやすくそれゆえに問題となりにくい。私は他者を容易に許したり、許さなかったりすることができる。この点で、前者を問うことは比較的容易だ。しかし、私が、他者から許されているか、許されていないかを知ることは極めて困難である。この点で、後者の問いに答えを与えることには困難が多い。だから、私は、〈私が他者を許せるか〉よりも、〈他者が私を許すか〉を問い続けることになる。そして、そこに答えなどない。もう少し回りくどくいえば、答えはどこにでもあるがゆえに、どこにもない。何が答えであるかを決めるのは私であるが、それはあくまで私が答えであると決めたものでしかない。だから、支えがない。

 問いと答えそのものには支えがないため、絶対的な答えが見つかることはない。かつ、「生きること」とは「生き続けること」なので、最終的な答えというものが見つかるわけではない。したがって答えが見つかるたびに、その答えは問いに付されうる。

(メモ:「神が私を許すか」という問いは、私を律するとともに私を殺しうる (私に死を選択させうる) はずだ。しかしながら、(a) 神は生の間だけを司るものではなく、また (b) 神は自殺を禁じている。こう想定することで、私は死を選ぶ私すら律することができる。私は私を殺し得ない。たとえどれほど辛くとも。そして、それほど辛くともそこから逃げられないのであれば、(c) この苦しみもまた、神が与えるものであると理解するようになるだろう。実際には (a)(b)(c) はそれぞれ同時に立ち上がってくるようなものであると考えられるが、整理するとこのような関係として記述することができる。)

(メモ:支えがないにもかかわらず、ある答えを疑わないときがある。疑うときもある。この違いの背後にある変数は何なのか。これを考えた末に、多くの人は「承認」といったものを見出す。自己肯定、そして世界や自分の生が揺るぎないと感じることには、「承認」が不可欠である、明日があるかも無根拠な世界をそれでも揺るぎないものとして信用できるのは「承認」のおかげであるなど。

 だが、私が「死ななくても良い」のは、「他者からの承認があるから」だ、という考えることにどれほどの意味があるのだろう? (1) ここでは、実質的に「許し」という言葉が「承認」に変わっただけで、問題は実は変わっていない。なにが「承認」であるかは、常に問いに付されうる。このことは強調しておいてよい。(2) また、仮に他者から「承認」されていたとして、それが本当に私が死を選ばない理由になるだろうか? 他者が私を肯定し承認してくれたとしても、私が私を許すことができない。そういう気持になることは多々あるだろう。(他者からの褒め言葉を素直に受け取れず「いや、自分なんか…」と言ってしまうことは日常においてよくある。それの深刻な例だと考えれば、そうおかしな想定ではないと思われる。) 他者から許されても、私が私を許すかどうかはまた別なのではないか。)



(8) ひとまずは、支えのない問いからは離れることにしよう。次に問うべきことは、〈自己(を)許す / 他者(が)許す〉というときに、何が許されているのか、だ。またしても迂回を重ねて、今度は問いがⅠへと、とくに(3)へと戻った。しかし、やはりここまでの迂回を経て、重さが与えられる箇所が当初とは変化しているはずだ。いま重さが与えられているのは、〈「生」を許す〉という部分だ。それも、〈自己 / 他者〉の区別をつけた以上、問いは次のように変わらなければならない。((7)をふまえて) そもそも〈私が「生」を許す / 他者が「生」を許す〉とはどのような事態なのか。ここにおいて問いは、「私が・死・を選ぶ」よりも「〈私 / 他者〉が・生・を許す」に重きを置くようになる。


(9)〈私が「生」を許す / 他者が「生」を許す〉とはどのような事態なのか。

 たとえば、「私が他者の生を許す」とはどのような場面なのだろうか。「私が他者の生を許す」などと考えうる場面に必要な条件は、「私が他者の生殺与奪権を握っていること」「私は他者を基本的には死ぬべきものとして捉えていること」であろう。そういう前提のうえで私は、なんらかの理由でその死ぬべき他者の生を許すのだろう。しかしながら、そのような条件は基本的には揃い得ないし、私が「他者の生を許す」という感覚になることなど想像できない。もしかすると上の条件を満たす人もいるかもしれない。しかし、それは一般的な事態としては考えられない。そう考えてよいだろう。

 むしろ、より容易に想像可能なのは、比較という状況を挿入した場面においてである。「誰かと比べて、ある誰かの生を許す」。これなら容易に想像できる (倫理的な思考実験などによくある型だ)。しかし、これを「私」の問題に置き換えると不思議なことになる。はたして、私は、誰かと比べて、私が生きていて良い理由を探していたのだろうか。逆にいえば、私は、(「死ななくても良い理由」を問うなかで) 私を生かし、他者を殺す理由を探していたのだろうか。そうではない、と思える。

 するとやはり、前者の想定が当初の問いに近いものなのだろう。ここから、もうひとつ「死ななくても良い理由」を問うことの前提が明らかになった。それは、「私は、私の生 / 死を決定できることになっている」ということだ。立岩などはこの前提にそもそも反対するだろう。それに寄りかかってしまえば話はだいぶ楽になるが、しかし問いへの納得を与えるような話になりそうにはないので、ここではとりあえずそれには触れないでおこう。

 だが、私に私を殺す権利があるかないかはさておき、とりあえず、ここまででこのようにはいえる。〈私が他者の「生」を許す〉ような場面などないし、同様に (他者も私と同じように、誰かの「生」を許す場面に出会うことなどないのだから) 私は〈他者が「生」を許す〉ことによって生きているのではない。


(10) だから、〈私が (他者の)「生」を許す / 他者が (私の)「生」を許す〉かどうかは、そもそも問題ではない。もちろん、〈他者が (他者の)「生」を許す〉場面が問題なのではない。唯一問題になるのは、〈私が (私の)「生」を許す〉場面だろうか。

 しかし、(9)の最後では、「私は他者によって許されているから生きているのではない」ということを述べた。これを〈私が (私の)「生」を許す〉場面に対しても問うてみよう。問い方はいろいろある。そもそも、「私は、私に許されているから生きているのか」「私は、私に生を許されているのか」「私は、私に許されなければ生きていけないのか」「私は、私に許されなければ生を選んではいけないのか」。

 おそらくはそうではない。そして、そうではない、「私は私に許されているから生きている」のではないと感じているとき、もはや二つの前提であった「基本的に私は死ぬべきであるということ」「自分の生 / 死を決めうるということ」から私ははみ出しているように思える。許すかどうかは、〈私が (私の)「生」を許す〉という場面を考える際にもやはり重要ではなかったのだ。


(11) この文章は、「私は許す / 許されるに関係なく、いま生きている」という事実を、そのままで肯定するような、そんな自己啓発的なニュアンスのために書いたのではない。ただ、「死ななくても良い理由」や「生きていても良い理由」を問うことの無意味さについて数時間考えながら書いたら、結果的にこうなった。結局同じ問いをぐるぐると回っていただけなので (もちろん、自分のなかでは、同じ問いを回りながらもその重心を変えていくことで、問いからはみ出していく〈私〉を見つけ、そこから問いを崩してしまおうともがいてみてはいたのだけど)、あまり意味のない文章になったかな、と思う気もするし、また考えてみてもよいかなと思う気もする。

 ただ、最後に改めていままでのことを確認し、それをふまえて一つ大事なことを確認しておきたい。まずはいままでで触れたことについて。(1)「死ななくても良い理由」を問うことはたぶんどこか死を選択しやすい。これについては残念ながらもう少し考える必要があるが、おそらくは問いの形式自体が、死を前提とすることで死を選択しやすくしているのではないか、と思う。そして、(2)「死ななくても良い理由」を問うことは、問いとして成り立っているかは怪しい。これについては、Ⅲの部分で「生を許す」ということについて追うなかで少しだけ明確化できたと思う。そもそも、答えを出す必要のあるような性質の問いではないし、だからこそ特定の答えなど出ないのである。

 重要なのはこの先だ。(3) これらのことから、「問いとして成り立っていないから答えを出しにくい」だけかもしれないにもかかわらず、その問いが死を選択しやすいものであるために、「答えがでないのだから、死ぬしかない」という考えへと容易に至ってしまう危険性がある。これを指摘できる。これを指摘できたかもしれないことが、この記事にとっては重要なのだ。

 ダラダラと迂回して考えた。迂回して考えたから、「答えが出ない」のは〈私〉に問題があるのではなく、問いに問題があるのだということを満足な形ではないが示唆できた。このダラダラのおかげで、「答えが出ないから死ぬ」という短絡に陥らずに済む。こういう迂回を、この記事ではしてきた。結果として当たり前の場所に帰ってきてはしまった。そうだとしても、迂回をしたこと自体に、ささやかな意味があった。そう思いたい。


 

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