伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』(2016年に読んだ、人にオススメしたい本③)


 さてさて、もう大晦日も残り少ないけれど、哲学編。いくつか候補が挙がっており、当初は入不二基義『あるようにあり、なるようになる』について書くつもりだったのだけど、読み直してみたらあまりおもしろくなかったので、単純に読んでいておもしろかったこっちを挙げることにした。


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◯ 哲学編:伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』(2003)

(1) 科学と疑似科学の間には推論の方法を始めとした方法論的側面についてどんな違いが存在するだろうか。
(2) 科学が存在するとみなすものと疑似科学が存在するとみなすものの間には差があるだろうか。
(3) 科学に関する政策と疑似科学に関する政策はそれぞれどのようにあるべきだろうか。 


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 1999年、『買ってはいけない』(週刊金曜日) という本が流行った。どんな本だったかというのは、ご存知の人はすぐにピンと来るだろう。知らない人もいるだろうから、例として「味の素」の項目から引用してみよう。

 諸外国で「味の素」すなわちグルタミン酸ソーダ(MSG)の毒性、有害性を指摘する学術論文が多いことに驚かされる。(…) 脳生理学の分野ではMSGを「神経興奮毒物」(ニューロ・トクシン)と呼ぶ。(…) フィリピンなど東南アジアでは、野犬を捕獲するときに缶詰の魚にアジノモトをふりかけて広場に置く。野犬がガツガツ食べると、そのうち足がふらつきはじめ、昏倒する。そこを捕える。日本でも “暴力バー” のホステスが酒に「味の素」を振りかけ、酔客を前後不覚にさせ金品を奪う事件も起こっている。「味の素」の急性神経毒性は、一般人もとっくにご存知なのだ。(:16-17)

 ほかにも、マクドナルドのハンバーガーはミミズで出来ているとか、食べると精子が激減するとか、もう言いたい放題である (ちなみにこの手の本で「精子減少」の危険が叫ばれることは多い。これは地味におもしろいことだなと思う)。

 ここで書かれていることが事実であるかをいちいち検討してみる必要はないだろう (あたりまえだが、ミミズでハンバーガーを作ったほうがコストは絶対に高い)。なんというか、検討するまでもない笑い話のように見えるし、実際かなり笑える。ただ、私が大事だと思うのは、この本が発売から半年程度で200万部を突破するほどに受容されたということである。もちろん、200万のなかには「笑うために買った人」も多く含まれていたとは思う。また、本気でこの本を受容したにせよ、笑うためにこの本を購入したにせよ、こうした一連の出来事は、すでに遠い過去のことのように感じるかもしれない。

 しかし、これは実際のところ一時的なブームではなかったし、常にネタとして消費されてきたわけでもなかった。ここを我々は重く受け止める必要がある。たとえば『買ってはいけない』著者陣の一人である渡辺雄二は、現在でも『買ってはいけないインスタント食品 買っても良いインスタント食品』(大和書房,2013) といった書籍の出版を続けている、2013年5月に出版された同著者の『食べるならどっち!?不安食品見極めガイド』(サンクチュアリ出版,2013) は2013年12月時点ですでに15万部を突破したと宣伝されていた。また、(これ以上書くと詳しくなりすぎて気持ち悪いので書かないが) この現象は『買ってはいけない』以前にも発見することができる。『買ってはいけない』の現象は繰り返されているのである。このことを踏まえたとき、我々はまだどこか自分とは関係のないものとして、これらを笑っていられるだろうか。

 あるいは、昨今であれば水素水といったものなどを思い浮かべても良いかもしれない。こうしたものをよく考えずに笑うことは容易であるが、しかし我々の社会は繰り返しこうしたものを受容してきたのである。そしてまた、あるものを笑う人であっても、ほかのあるものをとくに検討することなく受容していたりする。

(*ルーマンは『リスクの社会学』(1991=2014) のなかで、近代に移行するにつれて「病気は、いつおそってくるかわからない危険から、生活様式と結びついたリスクへと変化する」(:62) と書いている。自分自身の決定の結果として、病気というものが認識されるようになってきたのだと。我々の社会が『買ってはいけない』のような疑似科学や水素水のようなものを繰り返し求めてしまうのも、病気が日々の決定に依存しているという考えが強く根付いていることの証拠なのかもしれない。事実、『買ってはいけない』といった書籍群は事あるごとに、あまり食事とは関係ない病気の原因のすべてを、食事に求めようとしてしまう。あるいは、多くのガン予防にかんする疑似科学を想起してみても良いだろう。我々の社会は「病」を「生活様式 (日々の決定)」と結びつけ、そのもとで自身の消費行動、ひいては自身の欲望を管理・統治することを求めている。→関連記事:「消費社会と欲求の観念」)


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 さて、前置きが長くなってしまった。以上の例をふまえて問いたかったのは次のようなことだ。「そもそもなぜ我々はあるものを笑うことが出来るのか」。我々は一方であるものを信じ、他方であるものを嘘であり滑稽なものとして笑ってしまう。この境界線はどこにあるのか。つまり、〈科学/疑似科学〉の境界線はどこにあるのだろうか。『疑似科学と科学の哲学』は、そうした問いを追究していく。

 タイトルからもわかるように、本書は「疑似科学」を扱いながら「科学哲学」について説明するという内容になっている。基本的には入門本であり、初学者にも読みやすい。しかし、わかりやすい説明でありながらも、内容は多岐にわたり刺激的であった。

 そして、科学哲学について知ることが出来るのはもちろん、科学史としてもかなりおもしろく読めるところも高く評価したい。たとえば、占星術についても詳しく書かれており (コペルニクス、ケプラー、ニュートンなど)、科学哲学に興味のない人にも役に立つ記述は多いだろう。他にも、創造科学論争、超能力、代替医療といったものが採り上げられている。これらのどれか一つにでも興味を惹かれるのであれば、読んでおいて損はないと思う。


 我々はしばしばあるものについて簡単にわかった気になり、あるいはあるものを疑いなく信じている人のことを簡単に笑ってしまったりもする。しかし、そうした態度は、「自分自身の判断が何に基づくものなのか」を問うていないという点で、自身が笑っている対象と何も変わりはないのである。こういうときにこそ哲学というものが必要になる。そのような形で哲学の重要性を再認識させてくれる本書は、入門書でありながらも重要な一冊であると思う。



 

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