小宮友根『実践の中のジェンダー 法システムの社会学的記述』(2011) 第6章 被害者の意思を認定する
〇 概要
我々の行為・アイデンティティには無数の記述可能性がある。したがって、行為やアイデンティティを書くということは、一つの「意味」を選択することである (:217)。判決文を書くという行為も、正当な判決を下すという目的のための記述の選択を意味するのであり、まさにそうした選択があるからこそ、それは正当な判決文として理解可能となるのである (:219)。そして、こうした記述の正当性にはサックスが「成員カテゴリー化装置」と呼ぶ記述方法が関わっている。あるカテゴリーは特定の活動をすることへの規範的期待と結びついており、活動の正当な記述には適切なカテゴリーが用いられる必要があるのだ (:221-2)。
このことを確認したうえで強姦事件の判決について考えていこう。フェミニズムは強姦をめぐる裁判において被害者の過去の性的経歴が持ち出されることを批判してきた。それは欧米ではレイプシールド法の整備につながったのだが、そこでも性的経歴が証拠となることが完全に否定されているわけではない (:226)。なぜ過去の性的経歴が証拠としての力を持つことは否定しがたいのだろうか。それは (貞操といったものばかりが重視されているわけではなく) 「被害者の意思」を推定するにあたって、成員カテゴリーと特定の活動への規範的予期に関する知識が用いられているためである (:227-8)。
実際の判決を見ながらそのことを確認していこう。本章で紹介する事件でも、被害者証言の信用性を検討するにあたって「貞操観念」というものが持ち出されたのだが、ここでもその記述は「被害者の意思」の理解のために用いられている (:230-1)。まず、被害者(A子)自身は、「自身の意図で行為したわけではないこと」を証明するために、自発的行為を含まない表現を用いて場面を記述する (:232)。これに対して裁判官は、同様の行為を「強い記述」により記述しなおすことで、A子の行動を「軽率な行動」として理解できるように「パッケージ」しなおしていく (:234-8)。そのうえで裁判官は、A子の発言の原因を「社会常識に欠け」るといったA子のパーソナリティに求めるのである (:238)。
ここからは次のことがいえる。まず「被害者の当日の行動」と「被害者の過去の職業歴や性的経歴」は被害者のパーソナリティを理解可能にするための資源として等価であり、被害者の過去の経歴は必ずしも必要ではない [重要なのはパーソナリティを理解することである](:239)。そして、「当日の行動」に関する記述を変更することで理解可能となる被害者のパーソナリティは、そのまま「被害者の意思」の理解に用いられている (:239)。「当日の行動」についての記述を変え、その行動に結びついたパーソナリティ・カテゴリーを適用するだけで、被害者が「嘘をつく」理由ないし原因を持っている人物として記述をすることは可能なのであり、「被害者の意思」を推論する記述はそのようにして正当性を得るのである。ここでは「被害者の意思」「パーソナリティ」「当日の行動」のそれぞれが正しさを支えあうような形で、事実の「正しさ」の理解可能性が構成されている (:239)。
そして、ここで「被害者の意思」を推論するために持ち出される「貞操観念」というパーソナリティ・カテゴリーは、強く「女性」という性別カテゴリーと結びついている (:240-1)。それはすなわち、「同意」というものの理解、「強姦という行為」についての理解が、女性に適用されるカテゴリーと結びついてしまっていることを意味する (:241-2)。これは、(4章との関わりで言えば) 法的推論とパーソナリティ・カテゴリーについての常識的知識が不可分のものとなっているということを指し、(7章との関わりで言えば)「自由」についての議論が性別という属性と不可分のものになっていることを意味している (:242)。
コメント
〇 私はこの判決文をこのように読み取りました。
まず、タテマエとして、パーソナリティ・カテゴリーは「性交に同意した」という推論に用いられているのではなく、被告人の証言が真実であるか虚偽・誇張であるかを判定するために用いられている、ということを理解する必要があるように思われる。なぜそこにパーソナリティ・カテゴリーが用いられるのかというと、無罪の主張には被害者が虚偽・誇張に基づく証言をしているという積極的なアナザーストーリーを提示する必要があるためである (:208)。本来、形式的にいえば「被害者が性交に合意したかどうかは不明であるため、犯罪を立証することができない」と述べればそれでよいはずであり、パーソナリティに触れる必要は全くない。しかし、より説得力のある記述のためにはそうした記述が必要とされてしまう。
この裁判においても、P.238の判決文にある通り「A子の証言が真であるとすればA子は状況を誤認している可能性が高く / A子の証言が偽であるとすればそれはA子が自身の落ち度を自覚している可能性を示唆する」という形で、あくまでA子の証言の内容が焦点とされている。(6章を読んでいるとけっこう混乱するのだが、) 判決文において判断されているのは「同意をどのように捉えるか」「A子は同意をしたか」ということではないはずだ。「同意が存在したかは不明瞭である」ということを前提としたうえで、A子の証言は (真であったとしても偽であったとしても) 信用ができないので犯罪を立証することはできない、ということが述べられているのである (:230)。「貞操観念」という語も、「A子は性交に同意をしたはずだ」という推論に用いられているのではなく (それは例えば「A子がパンストを脱いだ」ということと、「A子は性交に同意したはずだ」という推論との飛躍を支えるために導入されているものではなく)、「A子は状況を誤認して証言している可能性が高いのであり、その証言には疑義が残る」という推論のために用いられている。
そして、そのように証言の妥当性に言及しているだけであるにも関わらず、「同意があったかのように理解可能になっている」というところに、この判決文の面白さがある。裁判官は、「同意があった」とは述べず、あくまで証言の妥当性を論じている。しかし、A子の証言を再記述することを通じて、裁判官はA子の行為の集合のあとに同意があったと理解できるような空白 (少なくとも、なぜそうした一連の行為を採ったのかの理由を尋ねうるような空白) を付け加えるのである (:237-8)。より抽象的にいうと、本章の面白さは、「行為者の意図を記述しなければ行為を記述することはできない」という問題を逆手にとって、「行為の記述を変更すれば、そこに行為者の意図を読み込むことができるようになる」ということを示して見せたことにあるのかもしれない。
そして、以上のように理解していくと、この判決文の意外なまでの読みにくさも理解することができる。判決文は、「A子が性交に同意したか」を未決にしている。それにも関わらず、「A子は社会常識に欠けるところが甚だしい女性であるとみられてもやむを得ない」という記述は、「A子の証言の妥当性を検討したもの」でありながら、同時に「A子が性交に同意した」ことを意味するものであるかのように、読み取れてしまうのである [注1]。
[注1]この判決文の読みにくさが、そのまま6章の記述に影響を与えている。小宮はP.230においては、判決文で「貞操観念がない」という人物像がそのまま「被害者の証言に虚偽や誇張がある」ことの根拠として用いられているとし、この二つの関係を順接として読み解く。これはP.208にある「弁護士は被害者の証言に虚偽があるというアナザーストーリーを打ち出すためにパーソナリティに触れる」という話とこの判決を対応させるための読みなのであろう。しかしP.238を読むと、「A子の証言が真であるとすれば、A子は貞操観念がなく実は性交に同意していた / A子の証言が偽であるとすれば、A子は自身の行動が同意と見なされうることを理解していた」という形で、判決文を並列で読み解いている。
〇 本当にパーソナリティ・カテゴリーは被害者の意思の推定に役立っているのか。
小宮は、裁判においては「被害者の意思」の推定がパーソナリティ・カテゴリーを用いて行われているとし、そこに「実践的合理性」があるとする。しかし、本当に「貞操観念」というパーソナリティを持ち出すことは今回の判決にとって不可欠だったのだろうか。
このことを検討するために、次のように問いをたてることにしよう。判決文はA子に対し「慎重で貞操観念があるという人物像は似つかわしくない」とし、「証言には虚偽・誇張が含まれていると疑うべき兆候がある」と述べるのだが (:230)、後者の指摘と前者の指摘はどちらも判決にとって不可欠であり、また両者は切り離せないものなのだろうか。「当日の行動」についてのA子の証言の検討から後者を指摘するだけでは十分ではないのか。答えは、やや込み入ったものとなる。
まず、判決文において両者の要素が不可欠なのは確かである。判決文は「A子の証言が真であるならばA子は社会常識に欠ける (貞操観念が薄い = 証言には誤認の可能性がある) / A子が落ち度を自覚して虚偽の証言をしているならばA子は誠実ではない」という軸を作り上げることで、どちらに転んでも責任をA子に帰属できるように記述を変更していく (:238)。その帰属のためには確かに両者の指摘は不可欠・不可分である。
しかし、「貞操観念が薄い」という指摘が、小宮のいうとおり「被害者の意思」を推論する重要な要素となっているかは怪しい。A子が虚偽の証言をしているという可能性が、そのまま「A子は自身の行為が同意を意味する可能性があると理解していた」可能性を示唆するものであることは確かである。しかし、「社会常識に欠ける」ということは (仮にそれが真であったとしても) そのまま「A子が性交に同意していた」ということを意味しない (「自らパンストを脱いだ」として、それがなぜ「性交の同意」や「性交時における脅迫の不在」を推定することに正当性は与えられない。ここからはせいぜい、同意が存在したかしなかったかは不明である、程度のことしか言うことができない) [注2]。
[注2]また、被告人が嘘をつく理由をアナザーストーリーとして理由を提示しなければならないというのはわかるが (:208)、「社会常識に欠ける」という説明がアナザーストーリーを支えるに足るものであるかはかなり怪しい。この点でも、パーソナリティを持ち出すことに大きな正当性があると考えるのはやや無理がある。
〇 それにも関わらず、なお「被害者の意思」が争点にならざるをえないということ。
しかし、こうした問題があるにも関わらず、裁判においてはやはり「被害者の意思」が争点とならざるをえない。それゆえに、判決文は「被害者の意思」に触れざるをえない。本章とは異なる視点から、その理由を考えてみよう。
上で述べたとおり、A子の行動に対する判決で示されているのは、「同意の存在が不明瞭である (同意したか、しなかったかは不明である)」といったことでしかない。すると、この状態には二つの可能性が未決定のまま残されている。「A子は同意しなかったかもしれない (強姦だったかもしれない) / A子は同意したかもしれない (強姦ではなかったかもしれない)」。異なる推論への道筋が残されているのである。
こうした状態にある以上、判決が無罪となることはわかる。「疑わしきは罰せず」の原則に則るならば、強姦の存在は証明できないのであり、被告を罪に問うことはできない。しかし、それを認めるとすると、強姦の立証は極めて難しいものとならざるをえない。ここに「被害者の意思」を無理にでも推論せざるをえない理由がある。
前提として裁判とは、当事者の証言が食い違う場である。本書4章で裁判官が行っている作業も、食い違う証言のなかから一致する部分を「事実」として用い、そこから判決を下すというものであった。要するに、両者の意見が異なる部分については、証拠として採用することができないのである。そして、強姦の事件において最も意見が食い違うのは、「同意をしたか / しないか (脅迫はあったか / なかったか)」という部分であろう。それゆえに、先のような無罪推定を許せばほとんどの場合は「同意の有無については不明である」ということとなり、「不明であるものは罰することができない」と判断される可能性が高いことになってしまう。
そのように被害者側が圧倒的に不利な形になっているからこそ、裁判において「被害者の意思」を推定することが重要な争点とならざるをえないのである。多くの場合「私は同意しませんでした」という証言はそのまま証拠として採用することが不可能なのであり、そうであるにも関わらず「同意」の不在を証明して強姦罪を立証しようとするならば、その証明は同意についての被害者の証言以外のところからの推論によって為されるしかない。すなわち、裁判官は「被害者は同意をしたか、しなかったか」を、その前後の発言や行動から推測するしかないのであり、そうした推測を正当化させるためにパーソナリティへの言及が避けられなくなるのである。「こういう発言や行動を採る人は、性交においてもこういう行動を採るだろう (あるいは、虚偽の証言をしているはずだ)」という常識的知識は、残念ながら不可欠なのだ。
以上をまとめると、「強姦かどうかを判定する」ということに向き合えば向き合うほど「被害者の意思」は無視できなくなり、それを無視せずに判定を下すからこそ、パーソナリティ・カテゴリーを用いた推論は行わざるをえないという話になる。なるほど、確かに実践的な合理性はあるのだ。
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