怒りとは学習するものである。(短文)

 だいぶ日を開けてしまった。
 「なぜ人は笑うのか」ということを先日書いたので、そこから派生して「怒りとは学習するものだ」ということについて書いておきたい。
 怒りとは通常、「体の内にある感情が爆発して、表に出てきてしまった」ようなものとして捉えられがちである。しかし、人々の相互行為を注意深く観察すれば、「怒り」とは相互行為のなかで学習されるものであることがわかる。
 まず、我々は怒り方を様々な方法で他者から学ぶ。例えば学校教育において。怒りからほかの子に暴力をふるった子は、その怒り方が適切ではないということを学ばされることになる。あるいは、親密な他者 (親子など) との関係のなかで。一般に「しつけ」と呼ばれるようなやりとりのなかで、人は怒りの感情をどのように表現するのかを少しずつ学ぶのであり、実のところ「怒りの表現の幅」が広いか狭いかはどのような相互作用を経験してきたかに大きく左右される。これは子どもを無暗に暴力によってしつけてはいけない理由の一つであるし、暴力を振るわれて育った人が自身の怒りを暴力によって表現してしまう (そのうえ暴力をふるわれて育ったことにより暴力をふるう人間を嫌悪しているため、怒りの感情をついつい暴力的に表現してしまう自分自身を嫌悪し、それでもなおそこから抜け出せなかったりする) 理由の一端もここにある。 無論、育児をする者を孤立させてはいけないことを説明する際にも、これは重要な視点となるであろう。多様な感情表現の幅を確保するためにも、子育ては多くの人間で行った方が良い。
 しかし、以上の話は「人は、怒りを表現する方法を学ぶ」という内容であり、「怒り」という感情そのものに焦点を当てたものではない。では、「怒り」とは例えば「体の内にある、体の底から湧き上がってくる感情」のようなものなのだろうか。これもまた相互行為をよく観察すれば、そのようにはなっていないことがわかる。少なくとも、「怒りの表現」と「怒りという感情」は相互に影響を与え合う関係にある。再び学校教育に目を向けよう。先に述べたように、怒りを暴力によって発露させると、学校はそれを訂正しようと試みる。他方で、「怒れないこと」もまた矯正の対象とされることがある。「こういうときにはちゃんと怒った方が良い」。そういった言葉で行為の修正を求められることになるのだが、この言葉は同時に「こうした場面では怒りという感情を持つべきだ」というメッセージを伝達している。
 このような働きかけの場面をもう少し細かく観察し記述していけば、感情というものがどのような働きかけのなかでどのように形成され、どのように他者に対しても理解可能なものとなっていくのかを明らかにすることができるであろう。

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