他者と共にあることの孤独


 数年前に即興小説というものが流行った。15分という制限時間のなかで何かを書くのは割りと面白くて、自分もそれなりの量の小説を書いた ( http://sokkyo-shosetsu.com/author.php?id=450838468 )。さっきふと数年ぶりにそれを見直してみて、この文章は残しておいても良いかなと思ったものがあったので、noteにあげてみる。

 お題は「ナウい孤独」。制限時間15分。932文字。


* * * * *


 たしかさを失って、ただ緩やかに解けていく。私も、あなたも。あらゆる準拠点は失われ、浮遊する。
 私は所を得たいと願い、あなたも所を得たいと願った。
 お互いがお互いに寄り添いあうようにして、なんとかして足場を作った。触れることによって初めてお互いを認識し、ただ触れることで、たしかさを確かめた。儚い確かさを。
 しかしいずれ、触れることは意味を失う。むしろ、触れることによって、相手は確かな存在ではなくなっていった。私が触れる。その感触を、相手はどのように感じているのだろうか。私は疑問に思う。私がどこをどう触れると、相手は気持ちいいと思うのか。私がどこをどう触れると、相手は私のことを気持ち悪いと思うのか。触れれば触れるほど、どのように触れればいいのかがわからなくなって、相手のことがわからなくなっていく。
 直接に触れたいと思った。直接に触れれば、そのことによってたしかさが生まれるのだと思った。だから、まるで手首を切ることで自分のたしかさを確かめる少女のように、私とあなたはお互いに触れた。触れることこそが、痛みこそが、たしかさだと、誰もが口を揃えて言ったからだ。その結果がこれだというのなら、なんという皮肉だろう。私は触れることによって相手に触れられないことに気がついたのだから。
 いま、身体が私とあなたを隔てている。同時に、身体があるからこそ、隔たりがあるからこそ、私とあなたは触れることができる。その両義性に気づくとき、私はあなたに、触れながら触れられないことのパラドクスに納得する。
 そして、私もあなたも、他者と共にあって共に生きる楽しみと、他者と共にありながら決して相手に触れることのできないという苦しみを、ほぼ同時に有するということを理解する。それは同時に存在する可能性であり、同じ一つの事柄の、異なる側面なのである。
 そう理解して私は、安堵するとともに絶望する。そこに問題がないことに気が付き、同時に決して解決されない問題が存することに気がつく。常に両義的、あるいは多義的でしか居られないことの苦痛と孤独、安寧と充足が、私を襲う。
 そんなことを考えながら、また今日もゆっくりと目を閉じた。明日なんて来なければいいと、願いながら。




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