小宮友根『実践の中のジェンダー 法システムの社会学的記述』(2011) 第4章 法的推論と常識的知識


〇 概要
 基本的に法現象研究は、「法的なもの」と「そうではないもの (社会)」を分けて両者の関係を考えてきた。それに対して、法解釈と常識的推論の不可分な関係を明らかにするのが本章の目的である。
 まず、法的活動には「正当化」の試みが不可欠である (:156)。そして、正当化の試みにおいては、当該システム内で受け入れられる「よい理由」以外は行為の理由として意味をなさない (たとえ他の理由で説明が可能な行為であっても、システム内部で受け入れられる理由しか口に出されない)。判決においては、そうした正当化は「演繹的正当化」の形式の下で行われている (:158)。演繹的正当化は、一見すると二つの前提から一つの結論を必然的に導き出すもののように見える。前提部分に常識的知識や規範が持ち出されるとしても、推論部分は純粋な領域として残されるのではないだろうか (:159)。こうした予想に反し、本章ではこの推論部分に対して常識的知識や規範が果たしている役割を検討していく。
 そもそも演繹的正当化を疑うことはいくらでも可能である。規則には必ず解釈の余地が残されるし、行為はあらゆる規則に合致させることができてしまう (:165)。だが、(2章でも確認したように) そもそも規則と行為は不可分なのであり、そうした懐疑は成り立たない (:168)。すごく簡単にいえば、推論は疑おうとすれば疑えるのだが、実践的には正しいのであり、その実践を見ていくべきだという話になる。そして、その実践においては、まず認定される事実が規則を適用されるべき出来事として提示される実践が含まれるのであり、そこにおいて常識的知識や規範は法的推論と不可分の関係にある (:170-171)。
 具体的に、「抗拒不能」状態の認定において、その状態が実際に示される様子を見ていこう。例えばAは自身の証言において、曖昧な表現を用いることでまさに自身が「ぼうっとして」いてそのときのことを覚えていないということを「事実」として提示してみせる (:175-7)。それに対して裁判官は、Aが「できたこと」を記述することで、Aが的確な状況把握をしていたことを示していく。例えば地名についての返事や「パパ」への反応は、Aが状況を把握していたということを示すものだと判断される。ここにおいて裁判官は、常識的知識を用いてAに帰属される判断能力を推定しているのであり (:183)、それをもとに法的推論を行っているのである。以上からもわかるように、正当化は個別の事実を規則の適用対象として扱うことを行っているのであり、そうすることで法的推論は可能になっているのである。


〇 コメント

規則への懐疑を持ち出す意味はあった? 
 本章で指摘される法的推論の問題とは、「(A) pならばq」「(B) 今回はp」「(Z) だからq」という推論がなぜ正当性を持つのかが説明困難であるというものであった (:160-1)。しかし、この話が実際の判例の話とどうつながるのかがわかりにくい。例えば、「(A) 数字が100~200のときには2を足す」という条件を与えたうえで、「(B) 今回は106だった」にも関わらず、「(Z) 4を足した」という話の場合は確かにウィトゲンシュタインによる規則への懐疑の話を持ち出す意味もわかる。本章においてわからないのは、法的推論においてこうしたことを想定することの必要性はどこにあるのかということである。
 本章の後半で行われていることは、わからなくはない。本章の後半では (やや表現を変えると)「(A) 強姦をしたら懲役刑」という条件のもと「(B) 今回は強姦をした」ので、「(Z) 懲役刑である」といった推論が検討されている。ここで小宮が注目するのは、そもそも「今回の事件が強姦である」と判定するとは一体どのようなことを意味するのか、ということである。上記の法的推論を行うにはそもそも「今回の事件が強姦である/ない」という事実の判定が必要になるのであり、その判定はただ「正しい事実についての記述」を積み上げるだけでは為しえない。行為は無数の記述可能性に開かれているのだから、行為者の意図や行為の可能性などについてのなんらかの判断が必要になるのであり、その判断には確かに常識的知識が用いられる。それゆえ、法的推論は「そもそも常識的知識が事実の判定においてどうしても用いられてしまう」という点で、常識的知識とは切り離せないということになる。この話はわかる。
 しかし、このように考えてみてもなおウィトゲンシュタインなどの話を出す意味はあまりわからない。「事実の判定をしなければ推論を為しえない」という話は推論の前提部分に関する話であり、「規則への懐疑 (推論することそのものを疑うこと)」とは違うところに焦点を当てているように、私には見える [注1]。

[注1]確かに、規則は適用される対象が規則の適用対象として認識されなければ適用することができず、またそれが適用できる対象であることは、実際に規則を適用することを通じて示される。
 しかし、本章を読んでいてややけむに巻かれたような気分になるのは、p.159で出てくる「常識的知識や規範は (A) や (B) に影響を与えるだけではないか (いや、そうではない)」という話と、その後の展開がややかみ合っていないように見えることに起因する。上で書いたように、判決文の検討において指摘されているのは、「(B) を認定するときに常識的知識が用いられる」ということなのだから。
 もちろん、「(B) を認定しなければ推論を為しえない以上、(B) の認定だけではなく、法的推論全体に影響を与えてしまう (それゆえ、法的推論と常識的知識は不可分である)」という意味では本章の内容は正しいと思うのだが、それは法的推論を論じる人たちにもすでにある程度実践上の事実として受け止められているのではないだろうか。法現象学のなかで法的推論に対する懐疑がいろいろと持ち出されて検討されているのならともかく、突然ここで懐疑を持ち出されて、しかも「それはとくに問題ではない。実践を見れば良い」と言われても、そもそもなぜそれを疑わないといけないのかがわからないので、困惑する。


「記述の選択」について。/ EMから社会学への回答として、本章を読む。
 本章を本書のなかでどう理解するべきなのかを考えてみよう。その際に重要となるのが、冒頭で述べられる「記述の選択」についての話であろう (:145)。裁判という場は、意図や動機や責任を行為者に帰属する場である。そして、(先の章でも述べられてきたように) 行為は無数に記述可能である以上、そこでは同一の行為をどのような「理解」の下で記述していくかが重要な問題となるはずである。
 そして、多くの場合「責任」を問われる場では、「そこにおいて何が可能だったのか」が一つの焦点となる。「責任」とは「しなくて良かったのに、してしまった / するべきだったのに、しなかった」といった記述において成立する概念であるからだ。そこでは、「行為の可能性」の記述がそのまま「意志」を推定することと接続されることとなる (「拒絶することも可能だった」⇨「それにも関わらず、拒絶しなかった」⇨「姦淫に応じる意思があった」)。
 重要なのは、同一の行為を特定の理解の下で記述していく、そのやり方の部分である。もし行為が本当に無限に記述可能であるとすれば、裁判官は一体どのように被告などの行為を理解するのであろうか。これは、社会学者が「人の行為をどう理解すれば良いのか」と悩むこと以前に、それ以上に、裁判官にとって「人の行為をどう記述すれば良いのか」が実践的な問題となっていることを意味している。では、裁判官はどのように理解を行っているのだろうか。どのようにして、行為者がそのとき「何をすることが (不) 可能だったのか」を判定し、行為者に意図や動機や責任を帰属しているのだろうか。
 本章の判例において裁判官は、Aが関わる姦淫行為を「抗拒不能状態ではない」ものとして理解していく。この理解は、Aの行動そのものから導き出されている。例えばAの「横川」という返答や「パパ」への反応は、「今自分がいかなる状況で、誰に対して、どのような活動をおこなっているのかについての理解」を含んだ適切なものであると判断されているのである (:181)。これが意味しているのは、的確な返事をするという行為は特定のカテゴリーの理解の下で可能になるということであり、そのことは裁判官や判決文を読む人たち (要するに社会学者ではない人たち) 自身によって、常識的に理解されているということである。だからこそ裁判官は、判決を下すことができるのだ。
 ここから社会学の方に立ち戻るならば、本章の内容は、裁判官という社会学者ではない人物が、どのように行為の理解を行っているかを明らかにするものであったといえる。そして、その理解の仕方を明らかにしていくこと自体が、行為の記述が無限にあり得る / 行為者の意図を完璧には知りえないという社会学上の問題に対するEMからの回答となっているのである。



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