他者と向き合うということ。 ―『映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ』(*ネタバレあり)


*ネタバレあり*

*映画館で初めて見たときの感想に加筆したものです。*

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 「助けてあげる」「守ってあげる」という言葉は奇妙だ。

 「助けてあげる」という言葉には大きな責任が伴う。それが欺瞞や勝手な言い分にならないだけの、相手への寄り添いや相手を支えるための力が必要になる。(関連記事→ https://note.mu/siteki_meigen/n/n3d8f1b544de2 )

 だから、それは往々にして、相手を助けてあげられないときに使うことができる。携帯の恋愛小説などでいうなら、相手が死んでしまうと分かっているからこそ、安易に「助けてあげる(守ってあげる)」ということができる。僅かな時間でも夢を見せることが。仮に相手が死なないまま、その〈助けてあげる―もらう〉の関係が永遠に続くとすれば、その非対称性は病理につながるだろう。

 「助けてあげられない」ときにこそ、「助けてあげる」ということができるという奇妙な逆説がある。この逆説は、「助けてあげる」という言葉の重みを我々に教えてくれる。


 しかし、それだけの重みがあるにも関わらず、

 それでも我々はしばしば、誰かを助けたいと思ってしまうことがある。


 それはもしかすると、「助けてあげる」とは違うのかもしれない。「助けになりたい」という方が近い。


 「助けてあげる」と「助けになる」の差は、実は大きい。

 「あげる」は、非対称性を前提としている。それゆえにそこには常に一種の欺瞞や危険性が伴うし、その言葉を口にすることには大きな責任が伴う。しかし、「助けになる」は〈寄り添う〉というニュアンスが大きい。

 

 映画の中盤、「助けられないなら、放っておくの?」とキュアハニーが言う。このセリフが胸に突き刺さって今も離れない。助けることには欺瞞があるかもしれない。「助けてあげる」なんて思い上がりも甚だしい。しかし、「助けられないなら、放っておくの」だろうか。


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 誰もが、自分が幸福な世界を望んでいる。

 もしそれがだれかを騙すことで成り立っていたとしても。

 みんなを幸せにはできない。

 誰もが幸せな世界など、つくることはできない。

 それは、弱いからというわけではない。

 そもそも無理なのだ。


 それでも、その不可能性を受け止めた上で、

 誰かの辛さに寄り添いたいと望む。誰かの助けになりたいと望む。

 それはもちろん自己満足でしかない。当たり前だ。寄り添いたいと思ったのは自分なのだから、寄り添うという行為は自分を満足させてくれる。そこに過剰に思い悩む必要はない。

 問題は、それが相手にとっても満足になりうるかどうか。相手に不安や不満を与えないか、ということにある。

 むしろ、助けられないからといって、見て見ぬふりを、見なかったふりをして放っておくことの方が、わたしにとっても他者にとっても不幸なのかもしれない。誰も満足させないのだから。

 そして同時に、放っておくことは一種の拒絶でもある。それは、他者と世界を拒絶し、関係を断つことを意味している。

 「放っておく」ことは、人形の国に閉じこもってしまうことと、まったく同じなのだ。


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 他者に寄り添うこと。

 それはやはり、「助ける」こととは違うのかもしれない。

 それは、少しでも幸福であるための、幸福な世界に生きるためのひとつの転回。お互いに自分だけの世界に閉じこもらないためのひとつの技法ではないだろうか。


 去年のドキドキプリキュア考察でも書いたが、絆 (きずな/ほだし) は、痛みや苦しみを生むものでもある。家族の絆で一生苦しめられる子どももいる。あるいは我々は (少し前まで「絆」という言葉をほとんど使ってなかったにも関わらず)、家族の絆や地域の絆の消失にやきもきしてしまう。

 そしてまた、「絆」とは〈呪い〉である。距離的に離れたものを結びつけ、あるいは「結びつかないといけない」という痛みを産む、という両方の意味で。結びつける機能と結びついてないことに痛みを与える逆機能を持つ、といってもいいかもしれない。

 したがって、「絆」という語自体はおそらく大事なのだと私は考えている。たとえ繋がりが切れてしまったとしても、たとえそのつながりが幻だとしても、すくなくとも〈つながろう〉という意志を「絆」は伝えることができる。「絆」がもつ規範・倫理としての機能を等閑視してはいけない (*)。

 しかし同時に、その「絆」という言葉が痛みを生むことがある。つながらなければ、「家族」でいなければ…。こうした痛みを産むという逆機能を「絆」という言葉が持つことも、忘れてはならない。


 人とつながること、つながらなくてはいけないと思い込むこと。

 そこには大きな可能性と、大きな苦しみがある。


 人はしばしば、可能性ばかりを強調したり、苦しみしかないと嘆いたりもする。

 しかし、「絆」という文字に〈きずな / ほだし〉という二種類の読み方があったように、それはコインの裏表のような関係なのである (そしてその関係の難しさこそが、人間関係の醍醐味なのだ)。それを忘れてはいけない。

 そこまでを理解したうえで、我々は可能性に賭けてみることができる。

 苦しみを受け入れて、それでも他者と向き合う可能性に賭けてみること、放っておくことなく他者に寄り添うこと。

 自分だけの世界に閉じこもらないこと。


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 でも、繰り返しになるが〈あげる―もらう〉の関係ではいけない。

 だから、この映画でもライトの応援だけでは足りない。外から与えられる応援は一度破られてしまう。

 つぐみ自身が、絶望 (苦しみ) ではなく希望 (可能性) を信じた時に初めて、それは力になるのである。彼女自身の気づきと決意が必要なのだ。


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 ともすれば、人に寄り添うとか、人を少しでも幸せにしたいという気持ちは、ただの「夢見るお姫様のキレイ事」に過ぎないのかもしれない。

キュアピース「わたしもみんなにもらったこの優しさを、いろんな人に分けていきたい。そうすればきっと、世界は、少しずつ平和になると思うから」

バッドエンドピース「世界平和ァ?そんな夢叶うワケないじゃない。夢見るお姫様のキレイ事だよ」


 それでも、理想でしかないとしても、その想像力を伝える。

 人から人へとつながっていくことを、いつか子どものもつ可能性がそれを実現してくれることを信じて。

 それがプリキュアなのだろう。



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 以上、とりとめなくなってしまったけれど、感想。

 以下は、考察、評価できる点と問題だと思った点について。

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 まず、ドール王国についての考察。

 あの世界は、花の形をしてはいたが、実のところ大きな棺桶だったのではないだろうか。

 テレビ本編において、サイアークは棺桶に閉じ込められた人のパワーを利用して生成されているように見える。すると、やはりつむぎが閉じ込められていたのも、大きな棺桶なのではないだろうか。そこで生成された巨大なパワーが、サイアークを無限に生み出す。そして、糸の形をもって現実世界に広がっていく。

 棺桶であると同時に、あの世界は〈永遠に続く幼少期の世界〉そのものである。不自由はなく、人形たちに囲まれて、そこで永遠に生きていくことができる。だから、つむぎがあの世界を捨てて現実に帰ろうと選択したことは、〈たった一人だけの幼少期の世界〉を捨てて、他者に痛みを与え / 他者から痛みを受ける、〈他者とともに生きる世界〉へと入ったことを意味していたのかもしれない。すると、人形たちの死は必要な要素だったともいえる。つぐみはもう、一生あの世界には帰れない。ハンデを負いながら、それを受け入れて生きていくことになる。

(*ドール王国からでたつむぎはハンデを負っていたか? おそらく、長年動かなかった足が突然動くことはない。ブラックファングの足枷が消えたからといって、衰退した筋肉は戻らない。だから、つむぎはその後、かなり苦しんだのだとわたしは解釈した。)

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 ここまでは世界観の考察。つぎに評価点について。

 まず、今回の映画、演出が秀逸だった。

 とくに面白いなと感じたのが、ドール王国での最初のサイアーク戦の直後。めぐみの「つむぎちゃんの悩みは私が全部引き受けちゃうから」みたいなセリフのとこ。そこにわざとリボンとひめの会話を重ねていたのが印象的。

 もちろん、二つの会話が同時に進むのは普通に聞き取りづらいので賛否両論かもしれない。でも、〈何気ない一言が知らない間に人を傷つける〉ということを上手く表現していたんじゃないだろうか。とくにあのタイミングではつむぎの足の問題に、めぐみは気が付きようもなかった。一見したところ、つむぎには障がいがなさそうだったのだ。そういう、一見してもわからないような障がいは多い。あるいは障がいでなくても良い (国籍の問題・マイノリティの問題、なんでもいい)。何気ない場面で、無責任なことや傷つけるような発言をしてしまうことは多々ある。

 そういうことの怖さを、よく表現していたと思う。


 それと、ところどころ表現が細かったことも好印象。たとえば、ジークが命を張ってプリキュアの糸を切ろうとしたシーン。ここでジークが真っ先に助けようとしたのがひめだったのは、けっこう良い配慮だったと思う。

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 次に問題点。

 ネット上での感想を見ていて多く指摘されていたもののひとつが、ひめの励まし。あれは「キュアラブリーらしさ」の押し付けではないか、というわけだ。

 確かに、少しゴニョゴニョしてしまうシーンではある。

 でも、上でも書いたように、重要なのは直後のキュアハニーのセリフ「助けられないなら、放っておくの?」じゃないだろうか。少なくとも私はそこが強く印象に残ったので、ひめのシーンもそれほど違和感を感じなかった。


 また、もっとも多かった指摘が、「足が治ることで話が台無しになっていないか?」というもの。

 個人的には足の障がいをブラックファングのせいにしたのは、たとえば事故で足が動かなくなるシーンなどを入れないための配慮かと思っていたので、見ているときには気にならなかった。そもそも本当に障がいがある設定にしたとして、70分映画でそれをどれだけ書くことができるかは疑問だ。そんな簡単な問題じゃないし。たぶん、監督としても悩んだのだと思う。主役をプリキュアに置き、ラブリーの葛藤と成長を書き、それでもストーリーの中心につむぎちゃんの描写を入れないと話が薄くなる。それを70分で表現する際に、どこを簡略化していくか。これは本当に悩ましいし、難しいことだ。

 だから、「あの映画以外の書き方をした70分もあったな」という形でストーリーを考えなおしてみるのはもちろんありにしても、そこまで大きな欠点ではないのではないだろうか。むしろ、いくつかある書き方のなかでも、比較的シンプルでドラマティックなものに仕上がっていた。

 それと、足が治ったことの代わりに、つむぎは人形たちを喪失している。目が覚めたつむぎがジークに涙をこぼすシーンから、やはり人形たちとはブラックファングに消されたままお別れになってしまったことがわかる (幼少期の世界を、唐突に失って現実の世界に帰ってきたのだ)。これは充分な対価じゃないだろうか。

 他方、某所で見た「車いすの娘」と見にいったお母さんの感想は印象的だ。〈娘は冒頭からつむぎちゃんに共感してしまったらしく、号泣していた。つむぎちゃんは治っても、この娘は治らない。プリキュアに敵を倒してくれというわけにもいかない〉といった感想だった。当然、この映画の内容だったら、こういうことにもなる。

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 最後に、あまり指摘されていないが、一番気になったことを。

 つむぎちゃんがあの世界にいることを、ラブリーは「本当の幸せだと思えない」といったが、このセリフに説得力を与えるだけの描写がない。もちろん、プリキュアたちを犠牲にして (自分の幸せのためにだれかを騙して) 成り立っている世界でつむぎは幸せそうじゃない、とも取れる。しかし、それでも説得力が弱い。

 一瞬だけでも、ドール王国に行ってしまって目を覚まさなくなったつむぎを、お母さんが心配そうに見守るシーンを入れれば、この世界にいることの問題がわかりやすく伝わったのではないだろうか。ホントに一瞬、そうしたシーンを入れるだけで、印象はだいぶ変わったと思う。




(*「絆」については、スマイルプリキュアの運動会の回が示唆的である。これについては他の記事で。)

(2014/10/16 公開記事に加筆して公開)

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