福井康太『法理論のルーマン』1章,2章


 わかりやすかったので、1章と2章のみなんか適当に言葉を足しつつまとめておく。ただし、ぶっちゃけ言葉を足しすぎていてまったく原型を留めていない。だから、この記事の内容がダメダメだったらそれはもうすべて自分のせいです。基本的に、括弧がついている部分は勝手に付け足した内容。

 

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 現代社会は複雑で不確実なのに、秩序と安定を持ち、かつ絶大な処理能力を有している。この二面性を捉える必要があるよ。法理論だって同じ。

 

◯ 第一章:ルーマンの社会システム理論

 1 社会システムとは何か

 一対一のコミュニケーションから話を始める。相手がどう行動するかを互いに知り得ないので、このコミュニケーションはけっこうドキドキ。でもまぁ試行錯誤すれば相手の出方もわかってくるもので、案外充分なくらいまでは透明化され不確実ではなくなる。こうして「社会的なるもの」は成立する。もちろん不確実なものにぶつかることはあるんだけど、そのたびにその偶発的な出来事に柔軟に対応しながら、二人は秩序をつくることが割りとできる。こうした創発的な秩序が「社会システム」。

 でも、一回一回相手と試行錯誤をしなくちゃいけないとすれば、社会は複雑になっていけない。(*コンビニでお金を払うときに、「こいつは私の金を盗んでどこかで消えたりしないだろうか…?」とかいちいち疑ってたら大変。) だから、複雑化した社会っていうのは、上で書いたような基礎的なメカニズムだけで動いているわけじゃない。

 社会が複雑になると、人々のやり取り連関の全体を見渡すことはまず不可能になってしまう。(*私は私が払ったお金がそのあとどこへ行ってしまうのかよく知らないし。) それでも、特定のコミュニケーションは「有意味なまとまり」としてありうるし混沌には陥っていない。複雑な社会が持つはずの高度な複雑性は、どうにかして対処されている。これは日常生活を送っていれば経験的にわかることだ。(*わたしは私のお金がどこへ行くかは知らないが、それでもいちいち疑うことなくお金をコンビニで払うことができる。つまり、私がよくわかっているかいないかに関わりなく、コミュニケーションはけっこう上手くいっている。) この事態をふまえるならば、システムがコミュニケーションを自覚的に同定し、その内容を規定しているのだと、考えを転換することができる。(*私が経済や店員のことをなんとも思っていなくても、私は <支払うこと> ができるし、普通買い物をするたびに不安になったりはしない。私は <支払う> というコミュニケーションが成り立たないかもしれない不安を感じなくて済んでいるのだ [そして、だからこそ経済のめぐりも良くなっている]。これを延長させて考えてみると、<支払う/支払わない>というコミュニケーションが円滑に行くか行かないかに、私 (人間) というものは大抵の場合あまり関係していない。となると、<私> ではなく、<システム> を主語にして考えたほうが良い)。(なお、システムがどのように特定のコミュニケーションを自己のものとして同定しているかは後の節で)。

 じゃあ、システムはどのようにして高度な社会が持つ複雑性に対処しているのか。第一に、「未規定な複雑性」を「構成された複雑性」(区別を通じて整序された複雑性) に変換することによって。第二に、その「構成された複雑性」を前提として、<システム/環境>の複雑性の落差が構成されることによって。システムは、自らに属する要素と属しない要素を選択し区別することで存立している。このとき環境は、システムの動的な展開のための必要な多様性のストックであったり、不都合を帰属するための場所だったりする (*のだが、とにかくそれは「構成された複雑性」のなかにおいてシステムが設ける区別なのだ。)

 そのようなシステムは、どこにも根拠を持たない。<環境/システム>の区別を用いてシステムが自分自身のことを同定する場合でも、その環境はシステム自身が自分で勝手に区別をすることで作り出しているものなのだから、所詮自分の鏡のようなものでしかない。この点で、システムというものはよくよく考えてみると常に自己言及的パラドックスに陥っている。

 ところがどっこい、システムのその無根拠さは、大体の場合巧妙に隠されている。というか、隠さないといけない。システムはパラドックスを、不可視化する形で「脱パラドックス化」しているのだ。どのようにして? システムが、自分で作った<環境/システム>の区別から自分を同定しようとするがゆえにパラドックスに陥っているのであれば、<システム/環境>区別のトートロジカルな反復を、断ち切ったり言い換えたりしてしまえば良い。例えば、「時間の不可逆性」を持ち出すことができる。「過去の自分」と「現在の自分」という区別を用いれば、「言及する自己 (現在の自分) と言及される自己 (過去の自分) は同じじゃないんだ!」という形でトートロジーをごまかせる。あるいは、自分の内に別の区別を持ち込んで、トートロジーをうやむやにしてしまえばよい。

 こうした脱パラドックス化の試みは、単にごまかしのためだけに行われているわけではない。むしろ、この試みによって、自己言及パラドックスは創造的に発展され、システムは自己の能力を拡張することができる。ここが大事。たとえば時間を取り入れれば、システムは自己を変動させていく自由を得ることができる。別の区別を読み込めば、システムの複合度は増大し、状況への対処能力は拡張される。

 

 2 社会システムの要素

 システムについて語るときに、それ以上分解できないものがシステムの要素だと考えてしまうことは多い。例えば、「人間」とか。でも、「統一的な人間や主体」が存在して社会の作動の前提となっているなんてもはや臆面なく言えることはなさそうだし、何が要素になるかは社会認識の仕方に依存するのでそれはそもそもシステムの側が決めていることだ。先に分解できないものを基礎に据えてそこから物事を論じはじめたら、静止的・持続的な見方しかできないことになってしまう。

 じゃあ、社会システムは何を要素とすると考えるべきか。生起する一瞬の「出来事」、つまりコミュニケーションを要素とすると考えれば良い。(なお、コミュニケーションはモノ的性質を持たない。だからそもそも人はそれを把握し得ない。把握できているのだとすれば、それは社会システムを構成する観点から意味づけされているからであり、このように意味づけられたものが「行為」である)。

 

 3 社会システムの構造

 こう考えると、「要素が持続するからシステムが持続するのだ」などとは考えられなくなる。じゃあシステムが持続的であるように見えるとすれば、それはなぜなのか。(構造によって) コミュニケーションが再生産されているからである。コミュニケーションはどこかに吹っ飛んでいってカオスに陥ったりせずに、ちゃんと前のコミュニケーションに接続される (*もちろん例外の場面はあるが、大体の場合はちゃんと接続される。また、例外が一個あったからといってそれでシステムの持続性が失われてしまったようには私達は感じない)。そうやって再生産が行われている。

 じゃあ、ちゃんと再生産されるのはなぜか (コミュニケーションの帰属先が選択的に限定されるのはなぜか)。「予期」があるためである。お互いが「あいつはこういう風に行動するだろう」という予期に沿いながら行動するため、一定の働きかけに対してあらゆるよくわからない行動が後続してしまうということはあまりない。これは一対一のコミュニケーションにおける例だが、それ以外の社会システムにおいても同様である。

 こうして、社会システムはその構造によって反復可能になり、持続性を有することになる。同時に、そのダイナミズムは失われていない。予期に反する形で後続するコミュニケーションが繰り返し接続され続けたら、予期の方が変わるだろうし、システムの構造は変化するだろうから。

 

 4 社会システムの自己構成

 さて、じゃあシステムはどのようにして自己を同定している (自己を観察している) のだろうか。ある予期が含まれた特定のコミュニケーションを自己に帰属させることによって、である。(*経済システムが、支払いに関する予期が含まれたコミュニケーションを自身に帰属させるなど)。

(自己同定とは、自己観察である。観察とは区別し指示することである。すると自己観察とは、自己とそうでないものを区別し、そのうえで自己を指すという、自己言及的な作動のことである [このときシステムは、自己のなかに、<自己/そうでないもの>という区別を導き入れていることになる]。)

 自己観察はシステム内部で反復的に記述される (自己記述)。システムは、自分自身を単純化された形で記述するのである。例えば真理・愛・貨幣・権力・法などのメディアは、人々の予期が姿を与えられたものである。(*貨幣を出せば、それはすぐに経済システムのコミュニケーションだとわかる)。あるいは、システムはそれぞれがコミュニケーションを容易ならしめるためのテーマをストックしている (ゼマンティク)。こうしたメディアの助けを借りながら、システムは特定のコミュニケーションを自己に帰属させていくのである。


 5 社会システムの機能分化

 システムは機能分化して閉鎖性を有するようになるほど、開放性を有するようになる。(*自分自身がちゃんと完成されれば、他者と触れ合っても自分自身を失ってしまうことはないし、他者と上手く付き合うことができる)。だが、システムが自分自身を保ちながら他者と付き合うことは、一体どのようにして可能なのか。翻訳能力によって、である。

「たとえば法システムは、ある事業者の支払いが滞っているという経済的な状態を「破産」というように定義し、「破産手続きの開始」という形で対処することができる」(:36)。要するに、〈支払い〉という点で経済システムに帰属されるコミュニケーションを、法システム内の概念に翻訳し、法システムの内部で処理してしまうのである。他のシステムが構成した複雑性を、翻訳することで自己の内で処理するのである。(これはシステム同士が互いの構造を利用して一時的に結合しているという状態なので、「構造的カップリング」と呼べる)。このようにしてシステムは協力し、自らの対処しうる複雑性を増大させているのだ。

 なお、あるシステムが確立されることとは、そのシステムが他のシステムの構造にちゃんと適応していくということを意味する。適応していないと、他のシステムに自分自身を揺るがされてしまうから。(*他人に上手く適当にあわせることを学ぶことで、確固とした自分自身を築くことができるのである)。



◯ 第二章:法システムの理論

 1 法システムの分出

 法はよく、事実と対応していないことが批判されたりする。法は、法が決めた規範の体系でしかないと (これを「規範テーゼ」と呼ぶことにする)。じゃあ、このように法の体系が事実から自律して存在していることを指摘すれば、法システムの自律性を指摘したことになるか? ならない。<法 / 事実 (法ではないもの)>の区別自体が法システムの自己観察に則ったものである以上、ここにあるのは自己言及的パラドックスだけである。

 じゃあ、法システムはどのようにして自律的となるのか。<法/不法>の二分コードを用いた法的な作動を継続することによって。例えば、当該のやり取りに「これは私の権利だ / いや違う」とか「お前のやっていることは違法だ / いや違う」といった観点を見出し得て始めて、それは法的なコミュニケーションとして法システムに帰属される。(*ただ私がコンビニでぽけーっとお金を支払う動作を、突然法的なコミュニケーションとして観察する人はたぶんいない。いたとしても、そのとき〈支払い〉という経済システム的なコミュニケーションは、「所有」とかそういう他の法システム内の概念に翻訳されているはずだ)。

 逆に言えば、法システムはいま問題になっているやり取りの内、<法/不法>のコードに乗らない部分についてはとりあえず無視する。そうすることで、撹乱されることなく迅速に情報を処理することを可能にしている。また、そのようにして自己を確立することで、他システムと構造的なカップリングを行いさらに複雑な処理を行えるようになる (たとえば「契約」という装置は経済システムにおいて手の込んだ投資を可能にし、法システムにおいて債権債務関係という法的なコミュニケーションをほいほい生み出す)。

 だが、<法/不法>という区別自体は、何も規定していない。何か内容があるものではない。何がなぜ<法>であるのかといったことは、この区別から導きだすことはできないのである (自己言及的パラドックス)。だから、脱パラドックス化が行われる (これは4章などで詳しく説明されるらしい)。 


 2 法システムの機能

 法システムは全体社会 (コミュニケーションの総体) において、どのような機能を持つのか。法システムが関わるのは、時間問題である。

 未来が不確実である以上、予期は常に裏切られる可能性をはらんでいる。そうした不確実性にも関わらず人々が安心して行動するためには、随時生じる違背に対して予期を安定させることが重要であろう。そしてそのためには、自分の予期が貫徹されるであろう見込みを維持し続けることが必要となる。(*どこかで横領や窃盗などが起こったからといって、私はコンビニで〈支払う〉たびに不安になったりはしない。それは、私が「横領」「窃盗」という行為に対して制裁が与えられるということを知っているからだ。横領や窃盗が起こる可能性を排除することはもちろんできないが、私は「大抵の場合、人は制裁が加えられるような行為をしないであろう。だから支払うことに不安はない」と行った形で予期を安定させることができている)。

 そして、法とは規範的予期 (抗事実的に安定化された予期) のうち、一般化されるに至ったもののことである。このほかに、予期ハズレの場合に簡単に変更されてしまう予期を、認知的予期と呼び区別しておこう。(*例えば、科学システムにおける予期はわりと頻繁にハズレるし、そのたびに変更される。これは法が関わる予期とは異なっている。) この二つの予期のうち、「人々は、規範的予期に関してなら、社会的な支援を当てにしてよい」とされている (:48)。だからこそ、多くの人は規範的予期にしたがって社会行動を採ることになるし、人の行動を信頼することができる。いちいち不安になって社会を停滞させたりしないで済む。

 だが、法だけが規範的予期なのではない。道徳規範とかもある。でも、法システムは、裁判所という「法的予期を全体社会においてシンボリックに貫徹するための『組織化された決定システム』を備えている」(:49)。道徳が生む制裁にはあまり期待できないが、裁判所は組織化された形で制裁の決定を行うことができる。だからこそ人は法規範によく従う。

 このようにして行動に予期が与えられると、他のシステムも良く動くようになる。他方で、法はほかのシステムの行動をすべて決めてしまうようなものでもない。あくまで条件の範囲内で行動を制御するのであり、逆に言えばそれ以外の部分に関して他のシステムに「自由」をもたらしているのである。それがたとえコンフリクトの場面であっても、法システムが口をはさむのは <法/不法> の二分コードに関わる部分に関してだけなのだ。


 3 コードとプログラム

 では、法システムのダイナミズムはどのようなところにあるのだろう。

 二分コードは可変性を有し得ない。<法/不法>の区別が可変であるとしてしまうと (「合法であるものは不法でありえるし、不法であるものは合法でありうる」などといったことを臆面もなく語ってしまえると)、法システムは不安定になる。だから、可変性は巧妙に組み込まれる必要がある。

 巧妙に仕組むためには、新たな区別を導入すれば良い。そこで、<コード>と<プログラム (法と不法の値が正しく帰属されているかを明らかにし、その理由を示す付加的ゼマンティク)>が区別される。こうすることで法システムは、<法/不法>の区別は不変だが、何を法に帰属するかの配分は可変的であるということになる。

 なお、プログラムには「条件プログラム (「もし~なら~する」という形のプログラム)」と「目的プログラム (目的実現に向けて行動を整序するプログラム)」がある。少し考えればわかるように法システムのプログラムとはすべて条件プログラムであり、そうであるからこそ (出来事を直接自分に組み込んだりしなくて済むので) 冷静に環境内の出来事に対して開かれていることができる。


 4 法システムの自己観察

 最後に、法システムの自己言及的パラドックスはどのようにして脱パラドックス化されているのであろうか。

 自己言及的パラドックスの特徴は、<観察される自己>と<観察する自己>が一致してしまうところにある。(*「この島の人間はすべて嘘つきだ」という問いは、命題[=観察されるもの]の<真/偽>を問おうとしても、発言者[=観察する者]の<真/偽>が確定できないというところがパラドックスを産んでいる。) このパラドックスを、システムはどう解消するのか。観察のレベルを区別して、<観察される自己>と<観察する自己>を別のレベルにおいてしまえば良い。そうすればパラドックスは巧妙に隠される。こうして、<ファースト・オーダーの観察><セカンドの・オーダーの観察>の区別が要請される。

 では、法システムにおいてそうした観察のレベルの違いはどこにあるのだろう? まず、人は、通常のやりとりのなかでは、<法/不法>を冷静に観察することはない。そんな余裕はない。この状態がファースト・オーダーの観察である。この時点では、法的なコミュニケーション以外の要素が含まれている可能性を排除できない。こうした「泥沼の争い」から、「判断のコミュニケーション」へと目を移せば、それはセカンド・オーダーの観察になる。このように視点を移すことで、法システムは観察パラドックスを免れ (<法/不法>のコミュニケーションのなかに閉じることができるようになり)、かつ自分の役目を冷静にこなすことができるようになる。

 また、そのようにコミュニケーションが閉じることで、より狭い観察拠点である「立法」「裁判 (司法)」を成立させることができる。これらはプログラムを確認・変更することで、法システムのより高い安定性に寄与する。また、観察パラドックスを免れているからこそ、法システムは自分自身の作動を法プログラム化することもできるのである (*ハートの二次ルールなどもこれに当たるのだろうか)。




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