私とあなたの間のすきま ー 赤江達也論文についてのコメントの補論


 人はコミュニケーションの主体たりえるのか。ここから、「主体」と「近代」というものを考えてみたい。なお、この記事は以前書いた以下の記事への補論となっている。



 まず、コミュニケーションの定義を「情報の伝達」だとしよう。その上で、やや極端だがわかりやすいある具体例を元に、コミュニケーションについて考えてみたい。

 例えば、とある読書会の最中、人の報告中に、私があくびをしたとしよう。おそらく報告者はそのあくびを見て、「あの人は眠いのだな」と思うだろう。また報告者が小心者であったら、「私の報告が退屈すぎるのかもしれない」と考えるかもしれない。このとき、私のあくびは「眠い」「退屈だ」という情報を相手に対して伝達している。その点で、これは当初の定義に照らし合わせればコミュニケーションであるということになる。

 では、このとき、「あくびをした私」は、コミュニケーションの主体 (あるいは行為の主体) たりえるのだろうか。答えは否であろう。少なくとも、私が相手に「私は退屈している!」という情報を伝えるために悪意をもってあくびをしたのでない限りは、私はある意図をもって行為をしたり、コミュニケーションで伝えるべき情報を選択したりする主体ではない。

 このような例から考えてみると、コミュニケーションと「主体」との間に関連性はないということになるだろう。私がコミュニケーションの主体ではなかったとしても、私とあなたの間にはコミュニケーションが成り立つ。逆に、私はあなたに対して情報が伝わってしまうことを制御することができない (ある程度までは制御できるが、意識的に制御できる領域はおそらく小さい)。だから、私はコミュニケーションにおいてコミュニケーションの主体である必然性はないし、それどころか主体であることができる領域はほとんど存在しない。もし、そのようにコミュニケーションと主体が無関係であるとして、それでもそれらが関係あるもののように見えるのであれば、それはそのようにコミュニケーションを「主体」としての「行為者」に帰属させる (こういってよければ) 「まなざし」があるからということになる。

 そのことを確認したうえで、内村鑑三の話を検討したい。概要等は以下の記事に。


 以上の話をふまえつつ改めてこの赤江達也の論文について考えてみるとき、「ためらう身体」としての内村は、決して「行為の主体」ではなかったということが重要になろう。それは、「ためらい」は行為ではなく、内村は情報を伝達する主体でもなかったという二重の意味で、そうだったのだ。そして、内村鑑三不敬事件の皮肉は、彼の身体が (内村本人にも予想できない形で) 情報を伝達してしまったというところ、その情報が「主体」としての内村に帰属されてしまったというところにある。

 人を「ある意志を持って行動する主体」として捉えてしまうとき、内村は悲劇のヒーローにされてしまう。しかし、そもそもコミュニケーションは意志とは関係なく発生する。だから、コミュニケーションと主体の間には、ある「すきま」が存在している。そのすきまを指し示したことに、この論文の価値はある。

 もう少し一般的な話にしておこう。人は、互いの意志を直接に観察することなどできない。だから、いつも私と相手は完全に理解しあえることなどない。私と相手との間には不気味な「すきま」が存在している。そうしたなかで、私たちは相手の意志がわからないにも関わらず、それを観察できたかのように感じ、それを相手に帰属し、そこから自分が返すべき情報を選択している。それは基本的には上手くいくことの方が多いので、日常生活の多くの場面において、私たちの間に存在する「すきま」は見えにくくなっている。見えにくくなってはいるのだが、それでもなお私は、相手の意志を想定して、それを相手に帰属させることしかできない。直接に相手の意志を観察することなどできないのである。だから、内村鑑三不敬事件のような悲劇が、ときに起こることになる。その見えなくなっていた「すきま」を、この論文は上手く描き出すのである。

(先日の記事では、内村が「何を為すことができ、何を為し得なかったのか」という点に注目した。しかし、その記事は未だ内村自身の行為に注目するという点で行為論に縛られている。これを内村の行為の問題ではなく、コミュニケーション一般の特性に置き換えてみたのが以上のコメントである。このように置き換えてみたとき、内村と周囲の人々との間にあった奇妙な「すきま」が、よりはっきりと浮かび上がるのではないだろうか。)

 さて、こうしたことを確認したうえで最後に、ここから見える「近代」とはどのようなものなのかを改めて考えてみたい。私たちは、歴史の変化をある主体に帰属させてきた。また、それに対する反省も長く唱えられてきたし、その反省から様々なアプローチが生み出されてきた。だからこういう話をもう聞き飽きつつあるところもあるのだが、改めて「行為の主体たりえなかったはずの人が、主体として祭り上げられてきた」ことの歴史について考えるとき、やはり不思議な気持ちになる。内村は不敬事件のあの場において主体ではありえなかったのだが、周囲の「まなざし」は彼を行為の主体として描き出した。このような場面が頻繁に見られるとして、ではそのようにして作られていく歴史とは一体何なのだろうか。「誰が」、歴史をつくったということになるのだろうか。あるいは、そもそも「誰が」にこだわらない歴史の描き方が、ここにはあるのかもしれない。

 そして、ここから見た近代とはどのようなものになるのだろうか。それは「誰かがつくりあげた近代」ではなく、「「ある行為を特定の「主体」に帰属する」というその観察方法を生み出したところの「近代」」といったものになるのであろう。これもまたやや言い古された話ではあるのだが。




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