フーコー『言葉ともの』:「序」


*2015/5/8に公開したもの。6段落目が変だけど公開。*


◉ フーコー『言葉ともの』:「序」

 ボルヘスの「シナのある百科事典」は、「われわれの時代と風土の刻印をおされたわれわれ自身の思考」、「秩序づけられたすべての表層」、そして諸事物に対する「すべての見取図」を揺さぶる[:13]。この百科事典において、不思議なのは空想上の動物ではない。それらは分類によって指示され、場所を占めている以上、思考可能なのである。可能な思考を越えるのは、むしろ「範疇のひとつひとつを他のすべてに結びつけてしまう、アルファベット形式(a,b,c,d)にほかならない」[:14]。

 この百科事典の異常さは、(それぞれの範疇がアルファベットで結びつけられているにも関わらず)「出会いの共通の空間」が崩壊してしまっていることにある[:14]。ここでは〈動物についての分類〉と〈ごく細の毛筆で書かれたもの〉と〈この分類自体に含まれている動物〉がアルファベット形式に並べられることで、分類 (《なかで》) や列挙 (《と》) が不可能になってしまっている [:15](こうもり傘《と》ミシンは手術台《のうえ》で出会うことができるが、〈ごく細の毛筆で書かれたもの〉と〈この分類自体に含まれている動物〉は一体どんな「台」において出会うというのだろうか)。

 ここには二重の困惑が含まれていることに注意しよう。ボルヘスが与える不安は、「場所と名にかかわる『共通なもの』」 (もの同士が出会う台(ターブル)、言語が区分けられる表(タブロー)) が失われたことに関わるのである[:16-7]。

 さて、こうした異国の文化に想いを馳せたところで、ではわれわれの行う「分類」とはいかなる行為なのだろうかを翻って考えてみよう。「分類」することとは物とのあいだに一つの「秩序」を設けることである。では、この「秩序」は一体どのようにして作られるのだろうか。どうやら、秩序は事物の「内部的法則」に従いつつ、同時に「視線、注意、言語といったものの格子をとおしてのみ実在するものにほかならない」[:18]。それゆえに2つの対極的な説明がなされうる (秩序の一般的法則や原理を説明するという考え方と、一文化の基本的な諸コードが経験的秩序を定めていると説明する考え方[:19])。

 しかし、我々はこの両極の中間に存在する領域に注目することにしよう。この中間領域は〈諸コード化に規定された視線〉と、〈秩序についての反省的認識〉との関わりあいのなかで可能になる。この関わりあいのなかで、文化は第一に「どんなものにせよ秩序が《ある》という、生のままの事実と向いあう」ことになる。そして「実定的基盤と見なされるこうした秩序を下地として、物を秩序づける一般的理論が、それに引き続いてさまざまな解釈が、構築され」ていくのである[:19]。

 以下の研究は、この中間領域に現れる「秩序とその存在様態にかかわるむきだしの経験」[:20]の分析である。これはつまり「いかなるところから出発して認識と理論が可能になったか、どのような秩序の空間にしたがって知が構成されたか、あるいはただちにほどかれ消えさるためだったかもしれないが、どのような歴史的《ア・プリオリ》を下地とし、どのような実体性の本領内で、観念があらわれ、学問が構成され、経験が哲学として反省され、合理性が形成されるということが可能だったのか、そのようなことをあらためて見きわめようとする研究なのである」[:20]。すなわち、「認識論的な場」(=エピステーメー) こそが、この研究の対象なのである[:20]。

 すると、ここで明らかにされる歴史は〈客観性を目指した進歩の歴史〉とは程遠いものとなるということも理解できよう。なぜなら「物と、それらを類別して知にさしだす秩序との存在様式が、根本的に変質」してしまう[:21]以上、エピステーメーは不連続のものなのだから。博物学と生物学と進化論に表層的類似性が認められたとしても、認識の枠組みが変容してしまっている以上、そこに連続性を見出すことはできないのである。

 そして、「人間」もまた、19世紀以降の布置の変容のなかで描き出された一つの布置にすぎない[:22]。



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