人間中心的な宗教について。(短文)


 書いていたのに、投稿するのを忘れていた。
 キース・トマス『人間と自然界 - 近代イギリスにおける自然観の変遷』を読んでいる。近代イギリスにおいて人びとの「自然」に関する考え方がどのように変化したのかを論じるイギリス社会史。ここからトピックを抜き出して話をする。
 時折、「キリスト教は人間中心的な宗教だ」と言われることがある。これがあまり自分のなかでピンと来ていなかったのだが、本書1章「人間の優越性」を読んでいて腑に落ちる部分があった。
 まず、(少なくともイギリスでは) テューダー朝・スチュワート朝あたりでそのような聖書解釈が流行したという。そこでは、世界に関する説明は確かに人間を中心に組み立てられていたようだ。野生動物が獰猛であること、爬虫類が生息していること、家畜がたたかれて苦しむこと、こうしたことのすべてがアダムの〈堕罪〉へと結びつけられていた。まさに「地はあなた (人間) のためにのろわれた」というわけだ。
 また、17世紀中葉以降は「堕罪と自然の荒廃」というテーマから「人間のためにデザインされた被造物」というテーマへと関心が移っていくという。家畜化は動物にとって善である、そもそも理性を欠いているのだから何ら権利や所有権を有する存在ではないといったように。
 こうした教義がどの程度の影響力を有していたのかといったことは私には確認のしようがない。しかし、確かに世界の成り立ちが人間の行為に求められている側面があり、また世界が人間のためにあるとする目的論的な視点は確かに珍しく思われる。
 興味深いのは、前者から後者へと重点が変化していくということであろう。その背景にはおおよそ次のような事情があったと推察することができる。当初人間にとって自然とは、自身を苦しめる側面を多く持つものであった。その困難を、人間はアダムによる原罪が原因であると説明した。やがて自然をコントロールできる場面が増えていくと、人間はそれを自身の優越性 (アダムは地上の支配権を与えられた) といったことから説明しようとする。要するに、自然をコントロールできる度合いに応じて、人間を軸とした物語の重点は移動していったのではないか。もちろん、これは簡略化しすぎたストーリーであり、あらゆる事実確認を飛ばして論じた妄想・仮説でしかないのだが。



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